No.3 自分自身であること

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備 えてくださったのです。」

エペソ2:10

みなさんは自分がどのような器であるか、自覚しておられますか。聖書によれば、神は陶器 師で私たちは粘土、私たちは父なる神に造られたものです。(イザヤ64:8)つまり「神の 作品」なのです。しかし、その概念は意外と漠然としており、私たちは自分自身がどのように 造られているのかを認識したり、受け入れたり、さらには満ち足りることがむずかしいので す。そして不必要に他者と比較することによって、ゆがんだ自己像をもってしまい、失望した り、神に対して不平不満を抱いたりします。また、自分を愛することが出来なくなります。そ のような自己をかかえたままで腹話術に取り組んでいると、主が与えてくださったせっかくの 良い賜物が生かされません。

自分を知るためには、イエス様が必要です

どんなに素晴らしく造られたステンドグラスでも、暗闇の中では、その造形を見ることはで きません。太陽の光が差し込んで初めて、色や形が浮き彫りになるのです。同様に、私たちも キリストを信じ、キリストの光に照らされて初めて、自分はどのように造られているのかを自 覚することができるのです。つまり、十字架により生まれ持った罪を赦され、復活のいのちに あずかり、神の子どもとされたとき初めて、自分は神の目的に従って造られていたのだという アイデンティティーを見いだすのです。

神が造られた自分を受け入れ、自分自身に満ち足りることが必要です

みなさんは、罪の問題は別として、自分の容姿や健康、性格、家庭環境、学歴や経験などを 喜んでいますか。「私はどうしてこんな家庭に生まれたのだろう」「もう少し能力があったら いいのに」「あんなことさえなければ私の人生は変わっていた」・・・等と思うことがありま せんか。私は、ある時期「自分はまるでガラスのコップのようだ。すぐ傷つくし、ちょっと熱 いお湯を入れれば割れてしまうし、落としたら壊れるし・・・もっと強くて、頑丈な器に造っ てもらいたかった」と神様を恨んでいました。けれども、創造主の天のお父様は私をそのよう な繊細な器として造りたかったのです。そこに神様のご意志があるのです。ガラスのコップに は、ガラスのコップとしての役割があるのです。それに気がついてからは、神様を恨まなくな りました。

神に造られた姿で、主に自分をささげることが大切です

ガラスのコップは、どんな時一番本領を発揮するでしょうか。冷たい水を入れるときです。 そこには喉が渇いて死にそうな人が水を欲しがっています。その人に水を運ぶためにコップは 用いられるのです。私は、ある時、決心しました。「私は水を運ぶ器として生きよう。飲んで もすぐ渇いてしまう水ではなく、永遠のいのちにいたる水を、魂に渇きを覚えている人に届け るために用いられる器として―」私は正にそのように意図されてデザインされ、母の胎の内で 組み立てられ、選ばれ、今までの人生があったのだとわかりました。それ以来、弱いことをむ しろ誇ろうと思うようになりました。神の力は弱さのうちに完全に現れるからです。(Ⅱコリ ント12:9)

みなさんは、またそれぞれに器が違います。形も重さも用いられる場も違います。違ってい て良いし、違わなければおかしいのです。自分であるということは、他人ではないということ です。他人にできて自分にできないことがあるのは当然です。反対に、自分にできて他人には できないこともあります。つまり、自分が自分であることを受け入れるとは、他人のようにな りたいと願うことをやめ、自分にしかできないことを神様は用意しておられるということを受 け取ることです。

こういう自分に人形が与えられたのは、自分にしかできない腹話術の奉仕があるのだと考え てください。それを自覚し、そのために用意された「良い行い」に自分をささげていくことが 大切です。それこそ、あなたを造られた神様が、あなたに対して切に願っておられることなの です。

2011年5月13日