No.38 みことば体験の力

「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」

詩篇42:1、2

私たちクリスチャンは、腹話術を習おうと決心した時、「これをもって、子どもにも大人にも、イエス様の愛(福音)を伝えていけたら・・・」という願いを多少なりとも、抱いていたと思います。ところが、いざ始めてみると、それが予想以上にむずかしいことであり、特に聖書の台本であれば、頭をかかえてしまうことも多いのです。そして、おもしろおかしい「聖書物語」であっても、「メッセージ」にはなっていないということがよく見受けられます。

本来、聖書とは、ただの物語ではありません。生ける神のことばなのですから、まるで「イスラエル昔話」のように、語られるべきではありません。それを聞いた人々の魂に届き、人生を変えていく力のあるものなのですから、たとえ腹話術というツールを用いる場合でも、そのような心構えで取り組まなければならないのです。

現代の日本には、聖書があふれています。誰でも、どこでも、何冊でも手にすることができます。それにもかかわらず、主を信じる者が、今なお1%に満たないのはなぜでしょうか。私たち先に救われたクリスチャン(教会)が伝道する力がないからです。その根本原因は、聖書を学んでいないこと。聖書を通して、主イエス・キリストと日々出会い、御声を聴いていないということによると思います。みなさんは、(信仰歴に関係なく)クリスチャン生活の中で、どのように、みことばと向き合っていますか。一度、じっくりと振り返ってみましょう。

礼拝における説教を聴く姿勢

毎週の礼拝において語られる説教を、○○先生の話としてではなく、神のことばとして聴いているでしょうか。(Ⅰテサロニケ2:13参照)そして、霊のことばを霊によって受け止め、みことばに従う心で素直に聴いているでしょうか。頭の知識が増し加わるだけでは、私たちの信仰は成長できません。

デボーションにおいて

みなさんが、神の子どもとされていながら、毎日デボーションの時をもっていないなら、乳を飲まない赤子のように、霊的に衰弱してしまうでしょう。しかし、ただ形式的に15分くらい聖書を開いて読んでいるだけというのも、ほとんど効果がありません。自分に合ったテキストを選んで、決められた箇所に沿って読んでいくのもよいでしょうが、重要なのは、黙想をするかどうかです。その日の箇所は、神について、人間についてどんなことを語っているか。私自身に対して、何が語られているか。私が悔い改めるべきこと、取り組むべき課題、見習うべき模範・・・など、具体的に個人的に適用するところまでいかなければ、みことばを読んだことにはならないのです。毎日そこまでいけなくても、そのような姿勢でみことばに向かっていくなら、時至って、必ず聖霊が働いて、神のみこころを知ることができます。

通読において

時間の関係で、デボーションか通読か、どちらかしかできないなら、まずはデボーションを優先してください。けれども、できるなら、聖書を始めから終わりまで、わかってもわからなくても通読することは大切です。どんなに疲れていても、その日の箇所を開いて「主よ、お語りください」という渇きをもって読むなら、主はみことばを通して直接語りかけてくださることも多いのです。

このように、日々聖書を通して、キリストと出会うことを求めて、飢え渇いているなら、私たちは、必ず神の御声を聴くという体験をすることができます。そして、日常生活の中でも、みことばを思い出し、それによって、主に立ち返ったり、励まされたり、慰めを受けたりして、みことばの力を体験することができるのです。

みなさんが腹話術で聖書を伝えるには、この「みことば体験」が絶対に必要です。「ザアカイのイエスとの出会い」を通して、みなさん自身は、どのようなイエス様と出会うことができましたか?

2015年9月25日