No.59 聖書台本がメッセージとなるために①

「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」

詩編119篇105節

腹話術の聖書台本をメッセージとして書き、演じることは、聖書片手のメッセージを作って語るより、さらに難しいかもしれません。単なるメッセージであるなら、自分ひとりで祈り、学び、神さまから示された真理のポイントをまとめ、原稿を見ながら語ることもできます。けれども、腹話術は、自分ともうひとりのキャラクター(人形)がいて、すべてふたりの会話であり、台本も暗記しなければならないからです。(さらに、人形操作が加わります!)しかも聖書台本としてメッセージ性をもたせるというのですから、至難の業に違いありません。

それでも、神さまは私たちに、腹話術を用いてみことばを伝えることを、お許しになりました。腹話術を神さまからの賜物として、聖霊の支配の中でささげていくなら、聖書片手のお話以上に人々の心に届くことができるからだ、と私は信じています。もちろん、そこで自他ともに、「腹話術は単なるエンターテイメントである」と位置付けるなら話は別で、聖書物語のあらすじを、おもしろおかしく語ることはできても、メッセージとはかけ離れたものになってしまうことでしょう。また、反対に「絶対に真理を伝えるのだ」と力んでしまっては、せっかくの腹話術を使う楽しさは失われ、「これなら素話の方がまし」ということにもなりかねません。

そういうわけで、これからは、みなさんが「放蕩息子のたとえ話」の台本作りに励む中で、どんな点を工夫したらよいか、気づいたところに従って、分かち合っていきたいと思います。

まず、今回は、<人形の聖書理解>について考えてみましょう。もちろん、人形がどうであるかを設定するには、術者がどうであるかが必要ですが、ほとんどの場合、「術者には信仰があり、その聖書箇所を十分学んでいる」ということが前提なので(私はかつてドラマ腹話術で「きららとメギーおばさん」を演じましたが、その場合は、きららが信者で、メギーおばさんは未信者の設定でした)その点は、取り上げないことにします。

人形には信仰がなく、聖書箇所も全く知らない場合

この設定は、未信者が多い伝道会などで役に立つと思います。この場合は、人形の台詞は、疑問、質問、誤解、先入観など、一般的に、神さまも聖書のことも知らない人が、普段どう考え、感じているかをかんがみて、(あるいは、自分がかつてどうであったかを思い出して)語らせると良いでしょう。術者は、聖書の流れを紹介しながら、人形の質問に対して答える形で会話は進んでいきます。ただし、疑問点は、あれこれ取り上げないで、主題にかかわることに集中すべきでしょう。この時、術者のことばや態度が“上から目線の説教”にならないように気をつけたいものです。

人形が信仰に肯定的で、不十分ながら知識がある場合

この設定は、教会学校に何度か来ている子どもとか、教会の集会に何度か来たことがある大人のためにはわかりやすいでしょう。「聖書知識が自分にはある、知っている」と思いながら、実はあやふやであったり、勘違いがあったりするなら、かえって会話はおもしろくなります。ただし、人形に間違いがあった時は、術者はとがめるのではなく優しい態度で、修正してあげましょう。

人形には十分知識があるが、霊的意味は全くわかっていない場合

これも、現実にはあり得るケースです。特に、たとえ話の場合は、何をどうたとえているのか、どんな意味があるのか・・・それは術者がよく学び、確信と喜びをもっていなくては解き明かすことはできません。“解き明かす”のであって“説明する”のではないのです。つまり、ここでこそ、術者の信仰と霊的状態が問われることになります。また、聖霊が働いてくださるかどうか、にもかかってきます。聖霊がいつ、どのように働かれるかは、私たちにはわかりませんが、準備段階で、どれほど祈って台本作成をしたか、聴衆のために祈ったか、が問われることでしょう。台本作成の段階で、「誰のために語るのか」が明確であることは重要です。

2021年2月26日