No.63 聖書台本がメッセージとなるために⑤

-血の通った人形の台詞-

神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。

創世記 2章7節

 腹話術の聖書台本が聖書片手のメッセージより難しいというのは、術者は一人で語るのではなく、隣にいる人形も語らなくてはならないからです。確かに、人形はあくまでも人形で、その人形の声を出しているのも、操作しているのも術者です。ところが、それによって、あたかも二人の人格が掛け合いをしているように見えるところが腹話術の面白さであり、同時に、難しさともいえるでしょう。

特に、聖書台本として、何とか真理を強調して伝えようとすると、さて相棒の人形はどんな台詞を言ったらいいのか、ただ術者の言うことにあいづちを打っていればいいのか・・・それでは全くおもしろみがありません。そこで、今回は、人形が生きた人格として「血の通った台詞」を語るために(そんな台詞を考えるために)心がけることについて考えてみましょう。

人形にも悩みがある

聖書は私たち人間に語り掛けている神のことばです。私たちは、明日をも知れぬ人生をどう生きたらいいのか、みんな悩みを抱えています。その根本問題を示し、解決法を教え導いてくれるのが聖書なのです。ですから、聖書台本を作るときには、その内容が私たちの生活と深く関わっていなければなりません。そして、それは術者のみならず、人形にとっても同じことなのです(人形にも人格があるということが前提ですが)。

ですから、最初の段階で、人形に「私は今、こんな悩みをもっている」ということを語ってもらうのは良い導入になると思います。

人形もみことばに渇いている

悩みのある人は必ず何らかの解決を求めています。人間であるなら、それを他人のアドバイスとか自分なりの方法で何とかしようと思うでしょうが、聖書台本を語るときには、人形はその解決をみことばに求めているという姿勢を示すことが必要です。つまり、これから聞く聖書の内容にとても興味関心をもっているのです。しかも、それがいたって自然でわざとらしくないことが大切です。そのためには、人形の神さまとの関係(霊性)の設定をある程度引き上げておく必要があるでしょう。

人形も感じたことを表現する

聖書の話(イエスさまの教え)は、日頃私たちがこの世で聞く人間的な知恵や悟りとは次元の違うものです。「人の目から神を見る」のと、「神の目から人を見る」のとでは、価値観が全く反対です。信仰とは、「神の目から人を見る」ことですから、すぐに聞いて理解することは誰にとっても簡単なことではありません。ですから、私たちでさえ難解なことは多いのです。ましてや、人格の違う人形も色々な疑問、質問の他、驚いたり、喜んだりする場面はたくさんあることでしょう。人形の立場に立って、そんな心の動きを自由に表現できるようになりたいものです。

人形も真理に応答する

メッセージを聴いたら、誰でも“理解した程度に応じて応答しなければならない”というのが、神のことばである聖書の原則です。それは、人形にとっても同様で、ただ術者が「だからこういう時はこうしましょうね」と行動を押し付けるような終わり方はふさわしくありません。応答はあくまでも個人的で主体的なものなのです。ですから、最初に人形が何に問題を感じているか、悩んでいるかがはっきりしていると、最後の適用の部分でどんな決心をしたかを明らかにすることができます。そういう組み立て方の台本ですと、聴いている側の人々も納得したり、感動したりすることができるわけです。

最後に一番重要な事実をお知らせしましょう。聴衆がみことばにどう反応するかは、術者の語るお説教によってではなく、人形の台詞や態度によって大きく影響されるということです。このことも、神さまが腹話術を福音宣教のために有効だとお考えになる理由のひとつなのではないでしょうか。

2021年6月23日