No.72 証し台本の書き方 ①

-何を信じたのか-

「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」

コリント人への手紙第一15章3,4節

 これからは、しばらくの間、「証し台本」に取り組んでいきたいと願っています。すでにイエスさまを信じて救われているクリスチャン腹話術師にとっては、「聖書台本」でメッセージを語るより、「証し台本」で自分の信仰体験を語る方がやりやすいのではないでしょうか。

ところが、ある方々にとっては、特に「救いの証し」となると躊躇してしまうことがあるようです。つまり、自分が救われる前はどれほどの罪を犯してしまったかを思い出して、それを正直に語って、聞いた人々から「えっそんなことがあったの?」などと言われたらどうしよう、と不安になってしまうらしいのです。

けれども、それは、「救いの証し」について、よく理解していないからに違いありません。確かに、人によっては、救われるまでの罪深さや愚行などをあからさまに話した方が、似たような境遇で苦しんでいる聴衆にとっては、とても共感できる、という場合もあります。けれども、これは、「証し」の中心的なことではありません。「証し」とは、あくまでも、「神が私に何をしてくださったか」を証しすることで、「私の身の上話」ではないからです。

そこで、今回は、まず、「救いの証し」に関するポイントをいくつか挙げてみましょう。

救われる前の生活について

神についてどんな捉え方をしていたか。その結果、どんな人生を歩むことになっていたか。特に、心ではどんなことに飢え渇いていたかについてまとめてください。ここでは、罪の具体的な羅列は必要ありません。

聖書や教会への導きについて

どんなきっかけがあって、聖書に触れたり、教会に導かれたか、などを簡潔に伝えてください。その時の興味や不安なども、聞く人には参考になるでしょう。

どんなみことばで信じるようになったか

最初にあげた聖句は、いわゆる「福音の三要素」と言われる箇所ですが、人が救われるためには、どうしても必要な信仰内容です。つまり、罪の自覚と十字架と復活が自分のためであったことを信じる信仰です。

実は、「救いの証し」で、最も重要なのは、この部分なのです。証しを聞くすべての人は、未信者であったあなたが、いったいどうしてクリスチャンになろうと決心したのか、何を信じたのか―そこの部分に一番関心をもっています。ですから、できれば、信じるきっかけになったみことばをひとつでも、ふたつでも引用していただくのが良いと思います。

とはいえ、私自身のことを振り返ってみても、最初に「信じます」と告白した時は、いたって不十分な福音理解であったと思います。特に、十字架はわかっても復活までは確信がありませんでした。それでも、主の憐れみで救われ、聖霊の内住が与えられ、バプテスマを受けてからしばらくして、復活のことを受け入れることができたのです。

人によっては、まず「洗礼を受けたい」という思いだけで洗礼を受けてから、その後で福音とは何かに気が付いた、という方もおられるでしょう。本来なら、これは順序が逆なのですが、それでも、恵みによってそれが許されたともいえます。ただし、「洗礼を受けたからクリスチャンだ」と思っているけれども、実は新生していないというケースもありますので、そういう人のためには、とりなしとみことばのフォローが不可欠です。

みなさんの場合はどうですか?最初からすべてわかっていたと取り繕う必要はありません。正直に主の憐れみ深いお取り扱いを伝えてくだされば、かえって、それが主の恵みを証しすることになると思うのです。

2022年5月20日