No.82 実を結ぶ腹話術

主と結ばれて

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」

(ヨハネの福音書15章5節)

 腹話術は、観る相手のある芸ですから、演じる側と観る側との間に、目には見えない“何か”が生じるものです。それは必ずしも術者が伝えたいと思うことではないかもしれませんが、必ず、観客は何かを感じとっているからです。
 一般的な腹話術であれば、観客はまず術者の技術を見て「うまい」とか「おもしろい」とか思うかもしれません。けれども、私たち「ゴスペル腹話術」を目指す者としては、それだけで終わっていたのでは目的を果たすことができません。その目的とは、究極的には「神の栄光を現す」ということであり、具体的には、「神の愛を流す」「福音を伝える」「主を証しする」というようなことでしょうか。そして、その結果、観ている方々にも「神のいのち」が届くということです。
とにかく、私たちにとって、腹話術がたとえ“自己表現”であったとしても、その自己とは「神の子ども」なのですから、神さま抜きには何もできないわけです。
 では、神さまに関することで、「実を結ぶ」腹話術となるためには、どんなことが必要となってくるでしょうか。今回はその点について、導かれるままに書いてみたいと思います。

1.術者が常に主とつながり、交わっている。

上記の「ぶどうの木のたとえ」のごとく、ぶどうの枝に実がなるためには、常にぶどうの木につながっていなければなりません。私たちはかつて、神から断絶し、神を知らない者でしたが、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、罪赦され、神ともう一度交わることができるようになりました。
ところが、信仰をいただいてもなお、私たちには古い肉の性質があって、常に主とつながり続けていることが難しいのです。その場合は、どうしたらよいのでしょうか。まずは、自分の信仰生活の優先順位が神さま第一になっているかを点検してみましょう。家事を始める前に、朝のデボーションで、個人的に主と交わっているでしょうか。みことばと祈りを通して、教えられ、応答するという関係が持てているでしょうか。そこから、一日が始まり、何をするにも主の臨在を感じながら過ごすことが大切なのです。それが「主のうちにとどまる」ということです。もちろん礼拝や諸集会に出席し、奉仕をすることも重要ですが、それも、主とのいのちの交わりがあってこそ祝福される恵みの場なのですから。

2.人形も常に主と交わっている。

 いつも言うことですが、腹話術は「ひとりであってふたりの芸」です。みなさんの腹話術を通して、キリストのいのちが観客に流れていくためには、人形も神さまからいのちをいただいていなければなりません。
 それはどういう形において成り立つのでしょうか。一言で言えば、術者が人形との交わりを欠かさないということによります。人形が常に術者とつながり、術者が常に主とつながり、そうして、主ご自身も術者の中に、そして人形の中にとどまるなら、その関係の中には神のいのちが存在します。
 今、みなさんの相棒である人形はどこにいますか?バッグの中ですか?それなら、バッグから取り出して、自分の部屋の目につく場所に座らせてください。そして、いつも眺めるだけでなく、時間を見つけて抱いたり、語り合ったりしてみましょう。その時は、なるべくみことばの分かち合いとなるとよいでしょう。そうして、人形の感想も聞いてから、一緒に祈りましょう。単なる“奉仕のための練習”ではなく、そのような日頃の霊の交わりが、人形の信仰も成長させるのです。

2023年4月28日