伝道メッセージの実際(3)
「いなくなった息子」(ルカ15章11~24節)から兄息子に焦点をあてたメッセージ
個人的適用
- クリスチャンになってからも、行い(奉仕)によって、父なる神を喜ばせようとする傾向があった。「愛されているから」ではなく「愛されるために」という動機で奉仕していたことに、後で気が付いた。
- いわゆるクリスチャン生活(礼拝、献金、奉仕、デボーションなど)をこなしていれば、父なる神に近く歩んでいると思いながら、実際には信仰が形骸化していることもある。
- 同じ信仰者同士でも、礼拝出席とか奉仕とかで他人と比較したり、心の中で「あの人はあまり熱心ではない」「あの人は信仰的に立派だ」とか裁くことがある。
メッセージの実際
- 対象
- 「コーヒーアワー(仮称)」(教会で毎月開催している伝道的婦人集会)の婦人方、ほとんど50代以上。
- 霊的必要
- 毎月の婦人集会を楽しみに来ていても、霊的にはまだ救いの必要性を感じていない人々と、クリスチャンでも、律法主義的になっている人々がいる。
- テーマ
- 救いは行いによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による。
- 中心聖句
- ルカ15:28「すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出てきて彼をなだめた。」
- 真理
- 神は、「救いは行いによる」と誤解している人々をも愛し、「信仰による救い」の恵みに招いておられる。
- タイトル
- 「良い行いではだめなの?」
- アウトライン
- ① 「救いは行いによる」と考えている人の生き方
- ② 「救いは行いによる」と考えている人が失っているもの
- ③ 「救いは行いによる」と考えている人に対する神の愛と招き
「神さまは君のことを待っているよ」
導 入
みなさんは、お父さんやお母さんが、自分のことを大切に思ってくれてるなあ、と感じるのはどんな時ですか。欲しいものを買ってくれた時?良いことをしてほめられた時?悪いことをしてしかられた時?全部かもしれませんね。聖書に「神は愛です」ということばがありますが、神さまは私たちをどんなふうに愛してくださっているのでしょう。
「良い行いではだめなの?」
みなさんのほとんどは、子育ての経験があると思います。子どもにも心があって、何かをしたり言ったりするには、口には出さない理由とか動機というものがありますよね。ところが、お母さんは家事で忙しかったりすると、つい、子どもの表面的な行いだけを見て、叱ったりほめたりしてしまうことが多いのではないでしょうか。でも、神さまは私たちを造ってくださった天のお父さまですから、子どもである私たちの行いより心を見て判断される方です。私たちは天国に入れていただくために、どんな心の態度が必要なのでしょうか。
聖書の中に、イエスさまがされたこんなたとえ話があります。ある父親にふたりの息子がいたのですが、弟息子が突然財産を要求したので、父はふたりに財産をわけてやりました。すると、弟の方が、それを持って、家を出ていってしまい、放蕩して全部使い果たしてしまったのです。丁度その地方では大飢饉が起こり、息子は飢え死にしそうになりました。彼は卑しい豚の世話をしながら、ようやく自分の愚かさに気が付き、神さまにも父親にも罪を犯したと悔い改めたのです。これからは雇人にでもしてもらおうと考えながら、家に向かうと、何と父親の方が駆け寄って彼を抱きしめ、雇人どころか一番上等な服と指輪、そして靴を身につけさせ、大喜びで宴会を始めたのです。そんなところへ、兄息子が畑仕事から帰ってきたのですが・・・さてどんな反応をしたでしょうか。
「救いは行いによる」と考える人の生き方(25~28a節)
ルカ15:25~28aまで読んでみましょう。兄息子は、弟を迎えての大宴会だと聞いて、怒りがこみあげて、家の中に入ろうともしませんでした。なぜでしょうか。
これはたとえ話ですから、実はこの兄息子というのは、イエスさまの話を聞いていた「律法学者やパリサイ人」と言われる人たちを指していたのです。彼らは「自分たちは神の戒めを守っているから神に喜ばれ、天国に入れられる」と考えていたのです。つまり「救いは行いによる」と信じていたのです。ですから、弟息子のように、ぐうたらで罪を犯した者が神に赦されて天国に迎えられる、などということは受け入れられませんでした。それで、弟にも父親にも怒りがこみあげてきて、宴会に加わることができなかったのです。
みなさんだったら、どうするでしょうか。やっぱり複雑な思いではないでしょうか。「あんなひどいことをした者がどうして赦されたり、歓迎されるのだろうか。まずはこっぴどく叱って、相応の懲らしめを与えることが当然ではないか」と思いますよね。でも、それは、やはり私たちも「神に喜ばれるには良い行いが必要だ」と考えている証拠なのです。
それでは、そう考えていた兄息子は、父親に向かって何と訴えたでしょうか。
「救いは行いによる」と考えている人が失っているもの(28b~30節)
聖書の28b~30節を読みましょう。兄息子は、父親になだめられればなだめられるほど怒りに燃えて、噛みついていますね。「自分は、長年、まるで奴隷のように父に仕え、戒めを守ってきたのに、父は何もしてくれなかった。それなのに、財産を食いつぶした息子に対して、こんな宴会を開くなんて不公平極まりない!」
一見、私たちも賛同したくなるような台詞ですが、こういう兄の心には何があったか、いえ、何がなかったかがにじみ出ています。
まず、父親のそばにずっといられたことへの感謝がありません。そして、子やぎ一匹どころか、すべてのものを父親から与えられていることに気が付かず、感謝ができません。自分が父の息子であることを誇りに思って喜んで仕えることもなく、一番身近な隣人である弟を「そんな息子」といって、見下して愛することができなかったのです。
「救いは行いによる」と考えている人は、自分の行いを他人と比較するので、「私はあの人より正しい」と裁いてしまいます。そして、「自分は罪人ではなく、神に赦される必要などない」と考えているので、神さまのあわれみとか赦しの恵みがわかりません。従って、心から神さまを愛することもできないのです。そんな兄に対して、父親は何と言ったのでしょうか。父の心はどんな思いだったのでしょうか。
「救いは行いによる」と考えている人に対する神の愛と招き(31~32節)
最後の31~32節を読みましょう。父親は、兄の嘆きを十分理解していました。でも、大変な誤解をされていることに心を痛めていたのです。父親にとっては、兄も弟も等しく愛しているわが息子たちです。それをわかってほしいと願っているのです。そして、弟のためになぜこんなにしてお祝いするかといえば、「死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった」からだと言います。親元から離れて、様々な悪い行いもしてきたけれど、悔い改めて帰ってきたのは、死んだ子が生き返ったのと同じことだからです。
これこそ本当の救いです。みなさん、罪というのは、悪い行いのことではなく、心が神さまから離れて断絶している状態のことをいうのです。ですから、救いとはその父なる神さまとのいのちの交わりが回復することです。この兄息子も、物理的には父親のそばにいましたが、心は遠く離れており、まだ救われていなかったのですね。弟息子と同じだったのです。
神さまの目には、私たちがこれまでどれほどの良い行い、悪い行いをしてきたか、は問題ではありません。私たちが、「自分も神さまから離れていた罪人だ」と気が付いて、砕かれた悔いた心をもって、「イエスさまが、この私の罪を身代わりに背負って、十字架で死んでくださった」と信じることが一番なのです。ただそう信じるだけで、神さまは、私たちの罪を赦し、神さまの子どもとして受け入れ、死んでも死なない永遠のいのちをくださるのです。そのいのちがあるので、天国にいれていただけるのですね。
イエスさまは、罪人を裁き、偉そうにしていた律法学者やパリサイ人のことも愛しておられました。「救いは行いによる」と誤解している人たちも、「信仰による救い」に招いてくださっています。このあと、兄息子はどうしたでしょう。聖書には書いてありません。それはみなさんそれぞれの決断だからです。どうぞ父なる神さまの愛の招きに応答してください。