No.1「メッセージとは何か」
「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」
テモテへの手紙Ⅱ2章15節
問題提議
これは、私自身も腹話術で聖書を伝えようとしてきた中で葛藤していたことですが、「ゴスペル腹話術師」と言いながら、聖書台本が“聖書物語のあらすじをおもしろおかしく伝える”ことに終始してしまうのはなぜなのでしょうか。また、みなさんの多くは、教会学校の教師でもあると思いまずが、“聖書そのものを学ぶ以前に教案誌にとびついてしまう”という誘惑に陥ってしまうのはなぜなのでしょうか。そもそも聖書とは何のために書かれた書物なのでしょうか。そして、その聖書の真理をまっすぐに説き明かすメッセージとはどのようなものなのでしょうか。あらためて考えてみましょう。
聖書とはどんな本か
聖書は、確かに「本」の形をしています。しかもとても分厚い書物です。けれども、一般の本とは性質が違います。もし、聖書が普通の本と変わらないものであるなら、どのように読み、活用しようとも自由でしょう。否、興味がないなら全然読まなくても構いません。それでも「聖書は世界のベストセラーだから」となんとか手にする多くの人々は、聖書を「文学的な本」「歴史の本」「未来についての予言の本」「自己啓発の本」等々、勝手気ままな意味づけをもって読んだり、論じたりしています。けれども、それらの観点は、すべて的外れです。聖書は本来、そのような目的をもって書かれた本ではないからです。
聖書はずばり「神のことば」です。神さまが被造物である私たち人間にご自身を啓示するために聖書の筆記者を選び、聖霊の導きの中で書き記させた書物なのです(Ⅱテモテ3:15、16参照)。従って、人は、神のことばを聴く時、その理解した程度に従って、応答することが求められているのです。「応答」とは、自由意志によるものですので、ある人は疑い、反発するかもしれませんし、ある人は素直に受け入れ、信じるかもしれません。けれども、とにかく、何かしら心を揺り動かされ、行動を起こすのです。ですから、神のことばを語るメッセンジャーの働きとは、ただ語ることで終わってはならず、聴く人を行動にかりたてる結果を生み出さなければなりません。その責任は語る対象が子どもであれ、大人であれ、全く同様なのです。
メッセージとは何か
このような聖書の性質上、メッセージ性のない聖書のお話というのは、全く力がありません。すなわち「いのち」に欠けているのです。神さまが、聖書を通して最も望んでおられることは、ご自身が創造された人間との「愛の交わり、いのちの交わりの回復」です。本来はとても良く、完全に造られた世界と人間でしたが、堕落天使と人間の不従順によって罪が入ってしまい、神と人との関係は断絶してしまいました。その結果、この世はサタンが支配し、人間は死に向かって孤独の中で苦しむことになったのです。けれども、聖であり義であり、愛である父なる神は、堕落した私たち人間を罪から救うために、ひとり子イエス・キリストを地上に送ってくださいました。このイエスこそ、十字架と復活によって、私たちと神さまの間にあった断絶の谷間に橋渡しをしてくださる唯一のお方なのです。
けれども、ここで忘れてはならないのは、私たちが聖書を語り伝えるのは、単に個人的な罪からの救いだけではありません。神はイエスを死人の中から復活させ、天に上げ、すべての名にまさる名を与えられました。「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」(ピリピ2:10~11)。そういう意味においては、聖書は究極的には「神の栄光が現される」ために書かれたのです。ですから、信仰と恵みによって先に救われた私たちがなすべきことは、この神の栄光が現されるために、みことばを書かれた目的にそって理解し、正しく解釈し、現代の人々に神さまのみこころを伝え、応答を促すという使命が託されているのです。
メッセンジャーに求められるもの
それでは次に、メッセージを語る者の心構えについて考えたいと思います。「メッセンジャー」と言われると、教会学校の教師の方々は、「私は牧師でも伝道師でも宣教師でもありません」と尻込みをされるかもしれませんが、ここでは、そのような特別な召しをいただいた方をさしているわけではなく、広く聖書を語る奉仕をする人々を指しているとお考えください。(とはいえ、初代教会では、エルサレムから迫害されて「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」(使徒8:4)とありますから、根本的には、教会学校の教師のみならず、救われている人はみな福音を宣べ伝える者として召されているのです。)
ここでは、冒頭にあげたⅡテモテ2:15に心を留めながら、3つの点をあげたいと思います。
① 真理のみことばをまっすぐに説き明かす
聖書は神のことばですから、書かれている真理を誤りなく理解し、解釈する必要があります。そのためには、語るべき箇所の「文脈」を大切にし、あくまでも聖書全体から見たその箇所の意味というものを絞っていく必要があるのです(これを帰納的解釈法と言います)。創世記から黙示録までの神の人類救済の計画と、そのために選ばれたイスラエルの歴史があり、そして2千年前のイエス・キリストの十字架と復活、昇天、その後のペンテコステと教会の誕生等々、聖書を歴史的視点から見ることも必要です。その上、扱う箇所の多くは過去の外国での出来事ですから、地理的、民族的、文化的、生活習慣の違いなどを踏まえつつ、当時の意味を調べ、さらにその箇所を通して、現代の日本人である私たちにも語られている普遍的真理は何であるかを見極めていくのです。
この聖書研究と解釈のプロセスにも聖霊の導きが必要ですが、さらに真理の「適用」段階では、みことばの黙想は欠かせません。霊である神のことばは、知的理解を超えて、あくまでも人間の霊に語りかけてくるものです。みことばの黙想を通して、ある箇所が私たちの魂に個人的に響いてきます。この時、私たちは「神を知る」とか「キリストと出会う」体験をするのです。その結果、罪の悔い改めが起こったり、心の傷の癒しや慰めや励ましなどを受けます。このように、メッセンジャーは、まずひとりの神の子として、みことばを通してキリストと出会い、内面が取り扱われなければなりません。その経験あってこそ、感動と喜びをもって聴く者の魂に届くメッセージを語ることができるのです。
② 恥じることのない働き人である
メッセージは語る人のことば以上に人格を通して流れていきます。そのために、メッセンジャーは、メッセージの時だけ準備すれば良いわけではありません。日々どれだけ「みことばに生きているか」が問われています。とはいえ、信仰が完璧な人はいません。自分の弱さや罪を思って「私などメッセージを語る資格はない」と失望落胆することがあっても、その中でキリストにあって弱さと戦い、罪を悔い改め、勝利をいただくことを体験しているなら、語る資格はそれで十分です。神は私たちの弱さの中にこそ力を発揮されるお方です(Ⅱコリント12:9参照)。それこそ神の栄光がほめたたえられる道だからです。
③ 自分を神に献げるように最善を尽くす
ひとたび、みことばを語ることに重荷を与えられ、教会から奉仕に任命されたなら、それは「神に選ばれ、使命を与えられた」と心得るべきです。この召しと賜物は、あらゆる角度から確かなものとならなければなりません。つまり、そのための「努力」も必要なのです。みなさんがメッセージを語る対象は幼児ですか?中学生ですか?成人ですか?みなさんが、どの年齢の人々にみことばを語るにせよ、その人たちについて、肉体的、知的、精神的、霊的な側面から知る努力が必要です。
ここまで「適用のないメッセージはメッセージにならない」と語ってきましたが、まさに、語る相手を知らずして、具体的適用はできません。(だからこそ、教会学校の場合、教案誌に寄りかかったお話では生徒の魂に届かないというわけなのです。)とはいえ、子どもであれ大人であれ、人間ひとりを総合的に理解するのは大変なことです。背後には親子の問題だけでなく、その人物を取り巻く様々な環境が大きく影響しています。また、それぞれの個性もあります。それでも、何とかして、このひとりの魂がキリストに繋がるために、相手を理解しようと時間をかけて交わってください。まず存在を受け入れ、愛をもって接し、相手のことばを傾聴し、信頼されることを目指してください。信頼こそ、心を開く鍵だからです。