伝道メッセージの実際(1)
「いなくなった息子」(ルカ15章11~24節)から弟息子に焦点をあてたメッセージ
個人的適用
- 生まれつき神(創造主)を知らないということは、なんと恐ろしいことかと思う。「これは私の人生だから、好きなように生きる。自分の力で幸せになってみせる」と、簡単に神を否定して大学に進んだ罪深さを、いまさらのように感じる。
- 神なき人生の虚しさを味わったのは、苦しかったが幸いだった。
- 自殺願望の中で、「求めよ、さらば与えられん」というみことばを思い出したのは、まさに神のご介入であった。絵本聖書も用いられたことを感謝する。
- 「教会に行ってみよう」と決断できたことも、聖書を読んで罪を理解でき、イエスの十字架を信じられたのも、聖霊のお働きだった。
メッセージの実際
- 対象
- キリスト教主義学校の女子中高生
- 霊的必要
- 学校で礼拝や聖書の学び、教会出席の宿題もあるが、イエスを個人的に知らない生徒がほとんどである。
- テーマ
- 造り主のもとへ帰る
- 中心聖句
- ルカ15:18「立って、父のところに行こう。」
- 真理
- 神なき人生の虚しさに気づき、父なる神のもとに帰るなら、神の子どもとされる。
- タイトル
- 「お父さんのところに帰ろう!」
- アウトライン
- ① 神から離れる性質
- ② 神なき人生の虚しさ
- ③ 神のもとに帰る幸い
「お父さんのところに帰ろう!」
導 入
みなさんは、「神さまは、いる」と思いますか。それとも「いない」と思いますか。私は、小学生の頃、母に尋ねました。「神さまは本当にいるのかなあ」すると、母は「そうねえ、いると思う人にはいるし、いないと思う人にはいないのかもね。」私は、子ども心に「おかしいなあ。いるならいるし、いないならいないんじゃないかなあ。」
このように、私たちは、神さまのことを自由気ままに考えて、いると信じる人も、いないと考える人もいますね。本当はどうなのでしょう。
神から離れる性質(11~13節)
イエスさまの語られたたとえにこんな話があります。あるお父さんに二人の息子がいました。ある日、弟の方が「お父さん、財産のうち、私がいただく分をください」と言い出したのです。親が死ぬ前に遺産相続したいとは、なんという親不孝者でしょうか。でも、お父さんは、財産を息子ふたりに分けてやりました。すると、弟息子は、何日もたたないうちに、それを全部お金に換えて、家を出ていってしまったのです。どこか遠くへ行って、自由に暮らしてみたいと思ったのでしょうか。
みなさん、実はこれは私たち人間の姿なのです。本当は、私たちには天地万物と私たちを造ってくださった父なる神さまがおられて、私たちがこうして何不自由なく生きていられるのは、この神さまのおかげなのです。でも、そのことを知らないで生まれてきた人間は、「自分の人生は自分で好きなように生きたい」と、神さまを信じないでそれぞれ自分勝手な道を歩むようになってしまいました。その結果、どうなったでしょう。
神なき人生の虚しさ(13~16節)
弟息子は、いまや大金持ちですが、もともとお金の賢い使い方など知りません。ふらりふらりと気の向くまま、遊び始めました。そういう人のところには、悪い人たちも寄ってくるものです。息子は、どんどんじゃんじゃん、まるで水道をひねって水を出しっぱなしにするように、使っていきました。これでは、どんな大金でもあっという間になくなりますよね。とうとうすっからかんになってしまいました。
そんな折も折、その地方全体にひどい飢饉が起こって、息子は食べるものにも困り始めたのです。みなさんなら、ここでどうしますか。すぐにお父さんのところに戻りますか。恥ずかしくて、そう簡単に戻れませんよね。自分でなんとかしたいと思うでしょう。
そこで、息子は、ある人のところを訪ねて「働かせてください」と頼んだのです。すると、その人は、彼を畑に送って、豚の世話をさせました。豚の世話というのは、息子にとっては、絶対にやりたくない、きたない仕事だったのです。でも、仕方なく、豚にいなご豆を食べさせていましたが、豚ががつがつと食べる姿を見ながら、「自分も食べたいなあ」と思うほど、おなかがすいてみじめでした。
みなさん、神さまから離れて自分勝手に生きる人生というのは、みんなこういうことになるのです。自分の好きなことを好きなようにやって、自由で平和で幸せになりたいと思うでしょう。でも、人生はそう思い通りにはいかないものです。つらいこと、悲しいこと、苦しいこともたくさんあります。それに、もともと「何のために生きているのか」人生の意味も目的もわかりません。なんとなく、偶然が重なって、成り行き任せになってしまいます。もちろん、やりたい夢がかなって成功する人もいるかもしれません。でも、人間は最後はどうなりますか。みんな遅かれ早かれ死ぬでしょう。お金持ちもそうでない人も同じように死ぬのです。そして、死んだらどうなるのでしょうか。わからないと怖いですね。だから、そういうことを考えないために、若い時は勉強、運動、遊び、恋愛などに夢中になり、大人になれば、仕事や子育てのことで頭をいっぱいにしたりして逃げ回ってしまうのです。でも、心の中は、本当はむなしいのです。どうしたらよいのでしょうか。
神のもとに帰る幸い(17~24節)
弟息子は、豚の世話をしながら、はたと我に返りました。「なんということだろう。お父さんのところでは、雇人だって、パンを腹いっぱい食べている。それなのに、ぼくはここで飢え死にしそうじゃないか。そうだ。立ってお父さんのところに行こう。そして、こう言おう。『お父さん、私は神さまにも、お父さんにも罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにして使ってください。』」
こうして、息子は思い切って立ち上がり、お父さんのところに向かいました。もう見る影もなく、やせこけて、服はぼろぼろで、力なくよろよろ歩きました。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親の方が息子を見つけて、駆け寄ってきたではありませんか。「息子よー、息子よー」お父さんは両手を広げて息子を抱きしめました。「お父さん、私は神さまにもお父さんにも罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」「何を言っているんだ。わが子よ。さあ、みんな、急いで、一番上等な服をもってきてこの子に着せておくれ。手には指輪だ。足には履物をはかせておくれ。そして肥えた子牛を料理してお祝いしようじゃないか。この子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったのだから。」
みなさん、この話の中で、どこが大事なところだと思いますか。まず、息子が我に返ったという点です。お父さんのところから離れることの愚かさに気づいて罪を認めたこと。それから、立ち上がって、お父さんのところに帰ったということです。その時、お父さんは、彼を死んでいたのに生き返った息子として迎えてくれました。それは、神さまがすでに、私たちの罪を赦すために、イエスさまを送って、身代わりに十字架にかけてくださったからです。 私たちも、イエスさまを信じるなら、死んでいた心が生き返って、新しく神さまの子どもとして迎え入れられます。私たちには、最初から父なる神さまがいるのです。私たちもお父さんのところに帰りましょう。