No.16 “Doing”ではなく“Being”
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」
マタイ5:3
腹話術は一種の「技術」であると思っていた頃、私は、本当に熱心に練習しました。先生が 「毎日5分」と言われれば、毎日15分やりました。「このパターンは20回練習」と言われれ ば、50回やりました。自分で納得いくまで、上の空でも出来るまで、繰り返し、鏡の前で練習 しました。
それから「人前で演じることが、さらに大切」と言われましたので、最初から「奉仕記録ノー ト」をつけ始め、それが100回、200回、500回となるのを目指して、どこにでも出させ ていただいて、たくさんの方々に見ていただく努力をしました。そして、200回記念礼拝、500回記念ステージなど、節目ごとに何かを企画して達成感を味わってきました。
しかし、それで10年間走り続けたとき、私の腹話術はもうこれ以上にはならない・・・とい う感覚をもったのです。「教えられた技術はすべてマスターした。パターンは覚えた。その範囲 で聖書台本を書くこともある程度できるようになった。けれども、これ以上創造的に、腹話術で みことばを伝えることに関して成長するためには、今の私では駄目だ。これ以上になるには、私 自身が変わらなければ駄目だ・・・」と実感したのです。すなわち、外側の技術ではなく、内側 の問題、ひいては全人格的成長の問題に気がついたのです。
確かに、腹話術は技術を伴います。正しい呼吸法、発声法、人形操作法だけ考えても、それを マスターするには、結構、時間がかかるものです。特に「ボイス・イリュージョン」とも言うべ き世界になれば、際限なく高度なものが要求されます。
けれども、腹話術は技術だけでは成り立ちません。一方で、それを支える術者の内面性という ものが問われてきます。ですから、技術と内面(わかりやすく、「心」と言いましょう)という のは、腹話術の両輪といえるかもしれません。いえ、むしろ、心が土台で、技術はその上に乗る と表現した方が正確でしょう。しかし、それならば、腹話術師はどのようにして、自分の心を磨 いたらよいのでしょうか。
最近、D・M・ロイドジョンズの『山上の説教』を読んでいて、この点を鋭く問われました。 「あなたは、生まれつきの素質に信頼をおいているところはありませんか。何を誇ってきました か?」という質問に対して、私は正直に「私は真面目で努力家です。ですから、かなりのことは 人並みにできます。それで腹話術も上達したのだと思います」と答えたのです。すると、主の細 き御声が聞こえてきました。「それは“何が出来るか”に関わることで、“どうあるか(内面的人 格)”とは全く関係がありませんね」と。私は愕然としました。
そうです。主イエス・キリストが、クリスチャンに一番望んでおられることは、生まれつき与 えられた能力を清めていただいて、それをもって何か奉仕をするということではありません。 「キリストの似姿になる」ことなのです。すなわち、生まれつきの肉の性質を捨て、自我に死 に、ただ神の栄光のために他者のために生きるということなのです。
ですから、その観点で自分を見れば、全くお手上げです。「私は神の前に何者でもない。自分 の力でできることは何一つない」ということを自覚させられます。だからこそ、キリストは「心 の貧しい者は幸いです」と語られたのです。
自分の霊的貧しさを徹底的に悟るなら、完全な服従をもって神を仰ぎ、神とその恵みとあわれみ に、完全に依り頼むことになります。すなわち、キリストに全存在を支配していただくことによ り、神の国の住民となれるのです。
私たちが、クリスチャン腹話術師だと言えるためには、まず心が貧しく、神の国の住民でなけ ればなりません。技術の習得を喜ぶ以上に、己の罪を悲しみ、他者に対して柔和であり(自分を 誇らず)、いつも義に飢え渇き(罪からの解放を願い)、あわれみ深く(敵にも助けの手を伸ば し)、心が清く(二心が無く)、平和をつくり出す者となり(悪口、陰口を慎み)、義のために は迫害されることも喜ぶ(キリストのごとく苦しむ)。そのような聖霊によるみわざを体験して いくことを求め、キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うとい う、主のご命令に従うことに心を向けるべきなのです。
2012年10月12日