No.39 聖書をドラマチックに語る
「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。」
詩篇119:129~131
多くのクリスチャン腹話術師は、「腹話術で聖書を語れば素話より効果が ある」と考えていることと思います。確かに、効果がないなら使わない方が 良いのです。けれども、その効果とは、神が喜ばれる性質のものでしょうか。 それとも自己満足に終わるものでしょうか。案外、「おもしろかった」とい う反応だけで満足してしまうような現実があるのではないでしょうか。そこ で、今日は、人形と共に語るみことばが、いかに、神のいのちにあふれ、観 客(聴衆)の魂に届き、人々を神に近づけることができるか、という問題意 識を持ちながら、「聖書をドラマチックに語る」ことについて、考えてみま しょう。
観客の人生はドラマチックである
腹話術師が忘れてはならないのは、子どもであれ大人であれ、演技を見て いる相手がいるということです。しかも、彼らの人生はそれぞれ実にドラマ チックです。家庭、学校、社会における様々な人間関係において、彼らは喜 び、楽しみ、悲しみ、悩み、傷つき、苦しんでいるのです。腹話術師は、自 分が人形を使って語りかけている相手が「生身の人間」であることを、もっ と意識する必要があるでしょう。その彼らがかかえている心の深みへと届く 内容の話をしているでしょうか。そもそも、彼らと神との関係は今どうなっ ているのか、その橋渡しをするにはどうしたら良いのか・・・みことばを伝 えるためには、観客である相手を深く研究する必要があるのです。
聖書はドラマチックである
昔、ある腹話術師の姉妹が「聖書の話なんて、神・罪・救いで、つまらな いんだから、冗談でも言っておもしろおかしくしなくちゃいけないのよ」と 言っていたのを聞いて、大変悲しかったのを思い出します。みなさんはどう ですか。
およそ、世界中の書物の中で、聖書ほど生き生きとして、ドラマチックな本 は他にないでしょう。まず、聖書の神には人格があり、こころがあり、ご自 身が創造された人間との関わりを一番大切にしておられるのです。それは愛 といのちの交わりです。しかし、その交わりが罪によって断絶されてからと いうもの、神はどれほど長い年月をかけて、人間との関係の回復を望んでこ られたことでしょうか。最も愛するひとり子イエスを犠牲にされるほどに、 神は人間を慕い求めてくださいました。その神と人間の関係の歴史ほどドラ マチックなものはありません。
神を知った私の人生はドラマチックである
腹話術がドラマチックになるかどうかは、腹話術師自身の人生をかけてい るかどうかにかかっています。つまり、聖書という教科書を退屈な教理の授 業のように教える先生になるか、生きた神のことば(神ご自身)を自分自身 が体験している者として、観客に語りかける証し人になるか… それは天と地ほどの違いです。たとえ、いわゆる「救いの証し」 台本でなくても、選んだ聖書箇所について、腹話術師は、自ら体 験していることが前提です。そのみことばを通して、イエス・キ リストと出会っているかが問われているのです。
昔、教会学校教師研修会で、ある講師の先生が「みことばは、『今、そこでイエス様と出会ったよ』というほどの新鮮さをもって語りなさ い」と言われたのを思い出します。しかし、私としては、さらなる臨場感が 必要だと考えます。つまり、「今、ここにイエス様がおられて、みなさんに こう語っておられるのですよ」という姿勢です。「私がイエス様に出会った のは、40年前の昔のことではありません。昨日も今日も、そして今、共にお られるのです」というほどの新鮮さが必要です。実際のところ、永遠なる主 は、いつでもどこでも、神の子どもである私たちと共におられ、みことばを 通して、私たちに語りかけておられるからです。けれども、聖書のことばが、 その場で生きたものとなり、腹話術師にとっても、観客にとっても神のこと ばとなるには、聖霊の働きが必要です。すでに聖霊の宮とされた腹話術師が 聖霊に満たされて語れるように、聖霊を祈り求めましょう。
2016年9月23日