No.45 腹話術と信仰成長②

- 愛のまなざし -

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

イザヤ書43章4節

腹話術とは、人前で演じることが大前提の芸能ですが、今日は、まず他人の演技をどう評価するか、という点で、私自身の失敗も含めて共に考えていきたいと思います。

腹話術をあるグループで習う場合、大抵は指導者がいて、その生徒(弟子)たちがいることになります。そして、セミナーや月例会などで、お互いに他人の演技を見て、指導者が評価したり、仲間が感想を分かち合ったりするわけです。そのこと自体は、技と心が成長するために、大変重要ですし、絶対に必要であるとも言えます。

ところが、この有意義な場が、ある人々にとっては、苦痛の場となり、自分の腹話術に自信を失ったり、果てはあきらめてしまったりするきっかけともなりうるのはどうしてでしょうか。それは、ひとえに、私たちはみな自己中心の罪の性質をもっているために、他者の演技をキリストにある愛をもって評価できないという弱点をもっているからです。その結果、どんなことばが口から出てしまうかを考えてみましょう。

まだできていないことばかりを指摘する

これは、誰よりも私自身が、長い年月犯してきた罪だったと、最近明確に示されていることです。私は腹話術を習って10年も経たないうちから、仲間を指導する立場を与えられてきましたが、その頃のあだ名は「鬼のマリヤ」でした。つまり、人の演技を見て評価する時に、ひとつもほめることをせず、“直すべきこと”を3つくらい並べたてるだけだったからです。それでも、私自身は、それがどれほど演技者を傷つけているかなどとは思いもよりませんでした。なぜなら、「あなたはこれらに気をつけて練習すれば、もっと上手になりますよ」という気持ちで忠告しているのだと自負していたからです。けれども、そんな裏の思いは相手に通じるはずもなく、酷評されたと感じた本人は、とてもつらい思いになったことでしょう。そんなことを長い間繰り返してきて、私はある時、はっとしました。私の厳しいことばに対して、誰一人「ありがとうございます」と返す者はなく、一様にうなだれてしまい、その結果、私自身も、心には満たされないいらだちのようなものが残るだけでした。指導していて、共に喜ぶという瞬間を味わうこともなかったのです。

「人はほめられるとうれしくて、さらに努力するものだ」とは、よく聞くことばですが、私も何とか“ほめる”ようにしたいと願いつつ、どうしてもそれができないのでした。けれども、とうとう聖霊の光に照らされて、私の根本原因がわかったのです。私は、幼い頃から、何を頑張っても、父親にほめられたことがありませんでした。そのために深く傷つき、「人に認められるためには完全でなければならない」という価値観をもった大人になってしまったのです。ですから、「私は父親と同じことをしてきたのだ」と悟った時、本当に安堵できたのです。そして、心から悔い改めました。(父にとっては、それが私に対する愛情表現だったのだと理解しながらも・・・)

イエスのまなざしで見よう

ではどうしたらよいのでしょうか。処世術では、“口でほめそやして、心でけなす”ということもありますが、キリスト者はそうであってはなりません。相手の演技を“イエスさまのまなざしで見る”ことだと思います。その人が、どんな生活事情のもとで、腹話術に取り組んでいるか、その背景もおもんぱかりながら、創造主からどんなユニークさを与えられ、どこに進歩がみられるか、どんな小さな一歩でも見逃すことなく、その賜物と努力を共に喜ぶことです。そして心から「ここが良くなったね」「あれがいいね」「ここはこう感じたけど、こういう風にしたらもっと伝わると思わない?」等と愛をもって評価することです。そうすれば、「こんなことを言うと、自分にも跳ね返ってくるから、何も言わないでおこう」などというおかしな遠慮をすることもなく、互いに、主にあって切磋琢磨するという雰囲気になることでしょう。そんな愛は、私たちにはありませんが、主が与えてくださいます。

2017 年11月24日