No.46 腹話術と信仰成長③

- 聖霊の風が吹く時 -

「風は思いのままに吹きます。」

ヨハネの福音書3章8節

私は25歳で腹話術を始めて40年になりますが、この間、私の心の内に は、常に腹話術という賜物に対する問いかけがありました。「なぜ神はこの 賜物を私に与えられたのか」「腹話術でみことばを伝え、証しすることは、 どこまで可能なのか」「腹話術を通して神の栄光はいかに現れるのか」とい うものです。

すると、これらの問いに対する答えともいうべき出来事が、昨年末、3回 の集会で起こりました。それは、キャンプ場での超教派の集いにおける50 分のパペットメッセージ(内パペットは20分)、私の属する教会での収穫 感謝の集いにおける証し(腹話術で6分)、他教会の子どもクリスマス会で の20分のパペットメッセージ(内パペットは10分)と、すべて違った規 模・目的の集会であり、私の霊が感じ取ったものはそれぞれでしたが、まと めてみると、以下のような特徴をもつものでした。

御霊による自由

それぞれ、集会の最初から、不思議な主の臨在 が感じられ、私はこれまで以上に、リラックスして講壇に立つことができま した。

笑いと喜び

人々は、パペットを見た瞬間から、顔をほころば せ、パペットのひとつひとつの台詞と動作に反応して、実に良く笑いまし た。その反応に、私の心は喜びに満たされ、パペットも自由に、生き生きと 動いているのがわかりました。

心に届くことば

パペットの時間から証しメッセージに移ると、 人々はますます熱心に、身を乗り出すようにして、話に耳を傾けてくれまし た。語っていた私にも、ひとことひとことのことばが、みなさんの魂まで吸 い込まれるように入っていくのが感じられました。もはや原稿を超えたこと ばが、天から降りてくるように次々と与えられたのです。

語る者と聴く者との一体感

多くの場合、私はあくまでも語る側 であり、相手は聴く側として、見えない境目のようなものがあるものです が、その時は、まるで主にあってはひとつ、という不思議な一体感があった のです。

神のみわざと栄光をほめたたえる

普通は、証しメッセージの後 でも、人間的なあいさつが返ってくることが多いのですが、その時は、私も みなさんも、主のみわざに感動して、黙って微笑みながら(ある人は涙ぐみ ながら)握手したりしていました。ただ、ただ、共に主を思い、主の栄光を 拝していたのです。

このような体験が続いて、私の心は主への感謝でいっぱいになりました。 「主は葛藤の続いた私の腹話術人生に、とうとうひとつの答えを備えてくだ さった」という満ち足りた思いになったからです。その答えをひとつの文章 にまとめるなら、こういうことでしょうか。―「内なる人が変革される経験 をもつ者(神のみことばの力を体験した者)の語る証し(台詞)に聖霊が働 く時、腹話術(腹話術師と人形)は、神の栄光を現す器として用いられる」しかも、このことを知った時の私の演技スタイルは、たったひとつ、ふたつ のパペットで、シンプルな演出で、たかだか6分から20分の長さのもので あったということが、まことに印象的でした。

すなわち、腹話術が神の栄光のために用いられるか否かは、複雑で高いレベルの技術があるか否かではなく、すべてが、神の主権と聖霊の支配の中に 入れられているかどうかにかかっていたのです。これこそ、「腹話術は神の 賜物だ」と言われるゆえんでありましょう。

私は、このような体験を語って、ゴスペル腹話術を志しているみ なさんに、誇っているのでしょうか。むしろ、この単純な真理に気 づくのに、40年もかかってしまった私の悟りの鈍さを恥ずかしく 思っているのです。そして、みなさんも、同じ主を信じ、愛してお られるなら、聖霊の働きを祈り求めさえすれば、同様の体験ができ ることを、心から信じているとお伝えしたいからなのです。これ は、腹話術歴が何年であろうと関係なく与えられる神の恵みなのに違いあり ません。ですから、私たちの内におられる御霊と上からの聖霊の油注ぎを求 めて、祈っていこうではありませんか。(ルカ11:13)

2018年1月26日