No.54 神の霊に満たされて

「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。」

出エジプト記31章2~3節

私たちクリスチャンが腹話術を習う動機として、一番多いのは、「技術を身に着けて、聖書のみことばを伝えたい」というものだと思います。そして、ほとんどの人が、「まずは子どもたちに見せたい」と願うことでしょう。それはどうしてでしょうか。純粋に児童伝道に重荷があるからというより、「厳しいまなざしで評価される大人ではなくて、幼稚な技術でも、子どもなら喜んでくれるのではないか」という思いが働くからではないでしょうか。

確かに、40年も前は、世の中にスマホもないし、子どもの楽しみは、テレビやおもちゃ以外では、絵本、紙芝居、スライド、人形劇など、激しく動く映像よりも、ゆったりとした表現形態が主流でした。また、子どもたちの集中力も今の時代よりも、相当高かったと思います。ですから、私自身も「ザアカイ」の話を人形タカちゃんと30分も語りましたが、子どもたち(主に小学校中高学年)は本当に真剣に見て、聞いてくれました。

けれども、今は、そのような時代ではありません。「子ども会」といっても、幼児と小学校低学年に親がついてくる(しかもわずかな人数)というのが現状です。時代は変わり、私たちも年齢を重ねました。それなのに、子ども会に対する腹話術台本や演出の仕方に工夫が見られないとすれば、それは完全に時代遅れですし、肝心な福音が伝わりません。それでは、ますます教会から子どもが離れ、教会の将来も危ぶまれることになるのです。

では、現代の子ども伝道を進める上で、どのような点を考慮し、主に祈り求めていかなくてはならないのでしょうか。

神さまからの「召し」を確信する

腹話術を習ったからと言って、誰でも子ども会の奉仕ができるわけではありません。特に幼子に対する重荷と賜物は必須です。自分の腹話術は、幼子のためにささげなさい、と神さまに言われているのかを、まず確認することです。 とはいえ「自分は子どもは苦手だから、やれません」と、祈りもなく断ってしまうのも問題でしょう。神さまは、私たちの思いを超えて、特別な使命のために、私たちを選んでおられるからです。

使命を果たすための力を主からいただく

私たちは、とかく、みことばを伝えるという神さまの働きに対して、自分の能力に頼ってそれをこなそうとしてしまうものです。たとえ「腹話術が少しはうまくなった」としても、「自分は幼児と遊ぶのが好きだから大丈夫」と思ったとしても、主から与えられた使命を果たすには、主からの霊に満たされる必要があるのです。今の時代の子どもたちには、どのようにしたら福音が伝わるのか、自分の生まれつきの能力や力に頼って判断し、実演するなら、必ず「我が身の栄光」を求める結果となるでしょう。福音が伝わるのは、みことばと聖霊により、相手は、幼子でも霊に届くものでなくてはならないのです。謙遜に上からの力を祈り求めるべきです。

現代の子どもたちの姿を研究する

時代が変わったのに、教会の姿勢が変わらないという傾向はよく見られます。子ども会なのに「親がついてきますから、親に向かって語ってください」というのは、全く子どもを無視した発想です。それに、「せっかくですから、腹話術を20~30分やってください」というのも、無理な話です。

神から知恵をいただくことと、子どもの研究をすることとは矛盾しません。まずは、テレビで幼児向けの番組を見てみましょう。内容は別としても、幼児の心身の発達に応じたプログラムがどういったものであるかを知らされ、驚くことでしょう。そして、「自分にはちょっとだけ腹話術ができるけれど、それだけでは、子どもたちにふさわしく福音を伝えることはむずかしい」ということを痛感することでしょう。腹話術はあくまでも、ひとつのツールにしかすぎません。自分は腹話術師だという自負を捨てて、他のツールも加えることを考えましょう。そのためには、友人や教会の方々に大いに協力していただくことも良い方法だと思います。

2019年1月25日