No.56 主の御声を聴く

「主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは『お話しください。しもべは聞いております』と言った。」

サムエル記第一3章10節

これまで、八年間、みなさんと共に「ゴスペル腹話術」について学んできました。その中で、腹話術の上達のためには、「台本書き」と「人形操作(表現)」が二つの大きな柱だなあと、みなさんも感じてこられたと思います。確かに、良い台本でなければ、たとえ人形をあれこれ動かしても、何を言いたいのかがわからず、観客の心には届きません。反対に、どんなにすばらしい台本が書けても、人形の動きや表現の仕方がわからなければ、せっかくの台詞が生きてきません。では、そのふたつのうち、どちらが優先されるべきでしょうか。それはやはり「台本」でしょう。みなさんは、どれほど、この「台本書き」に頭を悩ませてこられたことでしょうか。特に、ゴスペル腹話術師として、聖書を題材にして神さまの愛や救いを伝えようとするとき、本当にむずかしいと思いませんか。その点では、私自身も苦闘してきました。具体的に言えば、自分の台本が、どうしても聖書物語の“あらすじ”になってしまい、最後にとってつけたように、十字架と復活の説明を加えて何とかまとめる、という状態だったからです。「これでは神さまを伝えたことにならないのではないか」と感じつつ、いったいどうしたらいいのか、何が欠けているのかがわかりませんでした。でも、その後、原因がはっきりしてきたのです。今回は、その点についてみなさんにお分かちしたいと思います。

神さまからのメッセージを受け取っていない

私たちは、どうして聖書台本に苦労するのでしょうか。その根本的な原因は、聖書を通して、神さまからのメッセージを受け取っていないということです。

「神さまは、この箇所から、私たちに何を語り、私たちにどうなってほしいと願っているのだろうか」という点について、十分に聴く時間をとっていないということです。私たちは、腹話術で聖書の話をしようと思う時、どうしても良く知っている話や、話しやすい箇所を選んでしまうでしょう。それが、案外落とし穴になっていることがあるのです。つまり、「もう知っている有名な箇所だ」と考えて、改めてじっくりその箇所を学んだり、黙想したりすることもなく、すぐに台本書きを始めてしまうわけです。そうすると、当然ながら、あらすじをおもしろおかしく組立てようとするばかりで、結局何を言いたいのかがわからない台本になってしまうのです。

神さまの御声を聴いていない

次に、問題は「神さまの御声を聴いていない」ことですが、これは(1)で述べたことと何が違うのでしょうか。「神さまからのメッセージ」とは“私たち”に語られていることを指しますが、実は、この段階でよしとして、台本を書き始めると、結局は漠然とした真理の提示と抽象的な結論のお話に終わってしまうことになるでしょう。それでは、聖書台本が本当に力を発揮することはできません。つまり、なんとしても重要なことは、神さまが“私に”何を語られているのか、“私に”どうしてほしいのか、という個人的な語りかけを聴いているかどうかということなのです。これがすなわち、神さまと神の子どもである私たちひとりひとりとの間の「いのちの交わり」だからです。この交わりこそ、台本に神さまからのいのちと力が注がれる霊的実態なのです。

腹話術はボイスイリュージョン(声だけで演じる)でない限り、人形(パペット)を使うものです。目に見える人形が話したり動いたりしますから、演じる側も観る側も人形に注目するのは当然なことです。けれども、こと神のことばである聖書を語る時には、目に見えるものが問題なのではなく、目にみえない世界が問題となるのです。神さまは霊です。そして、私たち人間も霊的存在です。主イエスさまを信じて、心の内に聖霊を与えられた私たちが、まだ信仰をもたず、聖霊も与えられていない状態の人々に、霊なる神さまの愛を伝えようとしているのです。そのためには、みことばと聖霊の力によらなければ、何も伝えることができません。腹話術という技だけに心を奪われることなく、神さまとのいのちの交わりを第一にしたいものです。

2019年2月22日