No.60 聖書台本がメッセージとなるために②

-真理の整理-

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

ヨハネの福音書14章6節

 聖書台本は、本当にむずかしいものです。せっかく、聖書研究をして腹話術ではないメッセージの組み立て方を学んでも、いざ腹話術台本になると、その構成が途端に崩れてしまうのはどうしてでしょうか。やはり、人形との会話にしなければならないという形態の違いが混乱をもたらすのかもしれません。そうして、たとえ話の物語を追う形に心が引きずられてしまうのでしょう。でも、それではメッセージ性をもった聖書台本はいつになっても書くことができません。そこで、今回は、「聖書が教えている霊的真理を整理すること」について考えてみたいと思います。

登場人物を決める

「放蕩息子のたとえ話」を台本にするには、今まで学んできたように、「父親」「弟息子」「兄息子」の誰にスポットをあてるか、をまず心に定めることです。そして、選んだ人物に焦点を合わせるには、三人のうち、誰を登場させるかを考えます。父親を中心とするなら、二人の息子が必要でしょう。弟息子なら、父親と弟息子だけでよいでしょう。兄息子なら、やはり父親と弟息子も加えて三人が必要でしょう。けれども、それぞれ、誰を中心にするかによって、他の人物についての解説の割合は違ってきます。あくまでも中心人物の言動を深く掘り下げて、そこから霊的真理を導き出すことが必要なのです。

中心人物を通して、どんな真理が教えられているか

台本を書く前に必要なことは、中心人物の言動によって、このたとえ話はどんな霊的真理を教えているか、をしっかりまとめておかなくてはなりません。自分自身が教えられたことはたくさんあったとしても、台本にするには、多くても三つのポイントまでに絞りましょう。そして、それを箇条書きにしておくことです。そのうえで、結論(適用)までまとめておくこと。そうしないと、聴衆に何を訴えたいのかが自分でもわからなくなってしまいます。

そこで、以下に三人の登場人物別に、霊的真理の例をまとめてみましょう(これはあくまでも「例」であって、実際は皆さん自身が組み立てる作業です)。

父親が中心の場合(父なる神の愛のご性質)

  • 神は創造主であり、被造物の人間との愛の交わりを求めているが自由意志を尊重される・・・二人の息子に遺産を分けた。
  • 神との交わりの回復は、御子イエスの救いを信仰をもって受け入れることである・・・弟息子は罪の結果に気づき、父のもとへ帰ったが、兄息子は律法を守ることによる救いだと勘違いしていた。
  • 父なる神は、どんな罪人も赦す用意がある・・・弟息子への宴会と兄息子への促し。

【結論】

罪(神との断絶)を悔い改めて、神の愛を受け入れよう。

弟息子が中心の場合(罪の恐ろしさと悔い改めの祝福)

  • 罪とは父なる神のもとを離れ、自己中心に生きることである・・・遺産を請求して、家を出て行った。
  • 罪の報酬は死である・・・財も失い、飢饉となり、豚飼いにまで落ちぶれた。
  • 父なる神は、御子の十字架の死によって罪を赦し、人間が立ち帰るのを待っておられる・・・父親は自ら走り寄り、息子に新しい服、指輪、靴を履かせ、宴会を開いた。

【結論】

罪を悔い改めて神のもとへ帰るなら、神の子どもとされる。

兄息子が中心の場合(人のわざによっては救われず、神との平和はない)

  • わざによる救いを求める者は自己義認に陥る・・・兄息子は弟息子の行為を裁き、宴会を開く父親に対して怒りを覚えた。
  • 神は救いの方法を誤解している人でも愛しておられる・・・兄息子をなだめる。
  • 自己義認に気づき、イエスを信じる信仰による救いを受ける者は幸いである・・・兄息子がどうなったかは語られていない。

【結論】

信仰による恵みの救いを受け取れるように祈ろう。

2021年3月26日