No.62 聖書台本がメッセージとなるために④
-霊的教えへの転換-
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です
テモテへの手紙Ⅱ3章16節
聖書は、何のために書かれたのでしょうか。“霊”である神から“肉”をもつ私たち人間への語りかけです。本当は人間は“霊”も与えられた存在だったのですが、罪によって霊的には死んでしまい、神と交わることができなくなってしまいました。そこで、神は御子イエスを遣わされ、イエスは私たち人間と同じ姿にまでなられて、目に見えない神について教えてくださったのです。つまり、イエスの教えはすべて“霊的”な事柄なのです。
それにもかかわらず、私たちは、聖書を読むとき、この“霊的”な部分を忘れ、人間的に読んだり、勝手な解釈をしたりしてしまいます。その傾向は、腹話術で聖書台本を演じるときに顕著に表れます。やはり、「腹話術はおもしろくなくてはいけない」という先入観から、登場人物や物語を必要以上にドラマチックにしようとして、肝心な“霊的教え”からかけ離れてしまうのです。それはたとえ話のような場合に特に気をつけなくてはなりません。
そこで、今回は、いかにして、“霊的”な台本に組み立てたらよいか、ということを段階を追って考えてみましょう。
聖書研究で、当時の意味を知る
いくら聖書は霊的書物だとはいえ、時代も地理的条件も文化的背景も今の日本とは全く違う書物なのですから、まずは聖書研究を徹底的にしなければなりません。注解書なども使いながら、一節一節を丁寧に調べていきましょう。そして、この出来事は当時の人々にとってはどんな意味があったのかを確認します。「放蕩息子のたとえ話」であれば、その場にいた人々とイエスとの関係や、イエスはなぜこの話を切り出したのかという事情も調べます。
イエスの教えを抽出する
次にこの話を通して、イエスが一番教えたかったことは何かを絞っていきます。この段階では、私たちが勝手に思い込みで解釈してはなりません。まずは御子イエスが主張される真理とは何かが大切です。なぜなら、それが、現代にも通じる普遍的真理となるからです。
デボーションの時をもつ
これは、説教の準備でも同様ですが、背景などを丁寧に調べると、その調べた知識だけで頭がいっぱいになり、「結局、ここでは何がいいたいのか」ということが見えなくなってしまいます。そこで、次に踏むべきステップは、「デボーショナルに聖書を読み直す」ということです。つまり、調べたことは解釈の土台としたうえで、あらためて聖書だけに向き合い、祈り心で黙想するのです。「主よ、ここから、あなたが私に語り掛けていることはなんですか。神はどういうお方で、罪とはどんなもので、私はどうしなければなりませんか?」等々、みことばそのものに心を留めて、自分の心を探っていただくのです。そうして、発見したこと、聖霊に示されたことなどを受け止め祈ります(感謝や悔い改めも含めて)。このような時間をとらない限り、台本を書き始めることはできません。
霊的教えで話のアウトラインを書く
聖書台本の構成は、決して、物語のアウトラインをなぞってはいけません。そうしてしまうと、必ずお話の内容に足を引っ張られて、霊的教えを語ることができなくなります。まずは、霊的教えで、自分が一番語りたいメッセージのアウトラインを書きだしてみましょう。
弟息子の例
- 罪とは神から離れることである
- 罪の報酬は死である
- 罪は悔い改めて神に立ち帰るなら赦される
霊的教えに直結する導入を考える
導入は、この世の話などではなく、メッセージを伝える相手が日常的に体験していることをとりあげましょう。あるいは、「みなさん、罪って聞くとどんなことを考えますか?」などと、単刀直入に切り込むこともできます。
とにかく、どんなに馴染みのある個所でも時間をかけて主に聴くことが最も重要なことなのです。みことばはまさに、「生ける水」なのですから。
2021年5月26日