伝道メッセージの準備
「いなくなった息子」(ルカ15章11~32節)から3つのメッセージ
ルカ15章全体の構成と意味
- アウトライン
- ・場面設定(1~2節)
- ・たとえ話1.いなくなった羊(3~7節)
- ・たとえ話2.なくした銀貨(8~10節)
- ・たとえ話3.いなくなった息子(11~32節)
場面設定
イエスさまは、取税人や罪びとを受け入れたので、パリサイ人や律法学者たちはイエスさまを非難した。そこでイエスさまは、3つのたとえ話を通し彼らに反論した。
3つのたとえ話の統一テーマ
「失われた罪びとが見つかった時の神の喜び」をあらわしている。
3つのたとえ話と神さま
1. いなくなった羊の意味
- いなくなった1匹を捜し歩く羊飼いは、イエスさまをさしている。
- いなくなった羊は「悔い改めた罪人」をさしており、残された99匹の羊は「自分を 義とするパリサイ人、律法学者たち」をさしている。
- 「天」とは神さまのことである。神さまは、「業による救い」を得ようとする人よりも「信仰による救い」を求める人を喜ばれる。
2.「なくした銀貨」の意味
- なくなった銀貨を探す女の人は、「聖霊」をさしている。
- 聖霊は、みことばの光を掲げ「失われた者」を探す。
- ひとりの罪人が悔い改めるなら、天使たちの前には大きな喜びがある。
3.「いなくなった息子」の意味
- ふたりの息子の父は、「父なる神さま」をさしている。
- 弟息子は「悔い改めた罪人」をあらわし、兄息子は「パリサイ人たち」をあらわしている。
- 神さまはすべての人を愛し、神さまとのあるべき関係に立ち帰ることを望んでおられる。
「いなくなった息子」の聖書研究(15章11~32節)
父親とふたりの息子(11節)
父親とは「父なる神さま」を、ふたりの息子は「全人類」をさしている。どちらも創造主にとっては、被造物として「神の子」である。神さまは、すべての人を「愛し、尊び、豊かな賜物」を与えておられる。
弟息子の姿(12~20a節)
- 遺産相続を要求した(12節)
- 遺産分割は、親の財産管理能力が失われるか、あるいは亡くなってから行われるものであるが、弟息子は父親が元気なうちに、これを要求した。この行為は、親を敬わない不徳な行動であった。しかし、父親はなぜか彼の要求通りに願いをかなえ、兄に3分の2、弟に3分の1それぞれ財産を分配した。
- 神さまは人間に自由意志を与えたので、人間が罪のゆえに神さまを拒絶しても、その行動をやめさせることはできない。
- 財産を金に換え旅に出た(13節)
- 土地の相続は、本来父が死ぬまで売ることはできないが、弟息子はそれを金に換え遠い国に旅立ってしまった。「遠い国」とは、距離的な問題ではなく、おそらく「異邦人の地」をさしている。息子(未婚の青年?)は、経済観念もなく、遊びに財産を浪費してしまった。
- 人間は、神さまから与えられた恵みを自分の欲望を満たすために浪費し、その結果何が起こるかに気が付いていない。
- 大飢饉と豚の世話(14~16節)
- 息子が財産を使い果たした後、激しい飢饉が起こり、食べることにも困り果て、異邦人の元に身を寄せた。そこで与えられた仕事「豚の世話」は、ユダヤ人にとって屈辱的なものであった。おそらく彼は、不当に低い賃金しかもらえなかったと考えられる。彼は、豚の飼料である「いなご豆」を食べたいと思うほど困窮していた。
- 「罪の報酬は死」という言葉に表されているように、罪人は当然の報いを受けることになる。
- 我に返る(17~20a節)
- 息子は、最悪の状態の中で目が覚めた。家では、雇人さえ満腹しているのに、自分はなんとみじめなことかと気が付き、父の家に帰ることを考えた。そして、父に謝ることばを思いめぐらした。自分が天(神さま)に対して罪を犯し、父親に対しても罪を犯したことを告白しようと。しかし、もはや息子として戻る資格はないので、雇人のひとりとしてもらうことを考えた。それなら赦してもらい、食べることはできるのではないかと。そして立ち上がって父のもとへ向かった。
- 罪人は、自分の罪の恐ろしさを考えると、「どんなに神さまに謝っても、きっとそれなりの罰を受け、償わなければならないだろう」と想像する。しかし、とにかく罪に気付き、父なる神さまのもとへ向かうことが救いの一歩である。
父の姿(20b~24)
- 息子を抱き寄せる(20b節)
- 父は、息子の帰りをずっと待っていた。遠くに息子のおちぶれた姿が見えた時、それとわかり、かけよったのは父親の方であった。父は息子をかわいそうに思い、父としての威厳も振り捨てて駆け寄って、口づけした。
- 罪人が父なる神さまを見上げた途端、具体的な悔い改めのことばを口にする前に、神さまはありのままを受け入れて抱きしめてくださる。なぜなら、(この話には記されていないが)すでに御子イエスさまの十字架によって、罪は処理されているからである。神さまの愛は、罪の悲惨さと罪人のみじめさを見て、哀れに思い早く癒したいと願うほどあふれている。
- 息子を迎え、宴会を開く(21~24節)
- 父親は息子のことばを遮り、着物、指輪、靴を用意し、彼を自分の息子として迎え入れ、肥えた子牛をほふって宴会を始めた。
- 神さまは、悔い改めた罪人の救いをどれほど喜ぶことだろうか。宴会は天国の祝宴である。イエスさまを「主」と信じ、生まれ変わって神さまの子どもとされた者は、天来の特権と祝福にあずかることができる。
兄息子の姿(25~32節)
- 祝宴を喜べない(25~28a節)
- 兄は、弟の帰還を祝う宴を受け入れることなど到底できず怒りに燃え、家の中に入ろうともしなかった。
- パリサイ人や律法学者たちは、罪人たちが天国に入れられることを承諾できなかった。自分たちも、イエスさまが示す御国に入ることを拒絶した。これは神さまの「恵みの信仰」への抵抗である。
- 兄の誤解(28b~30節)
- 怒っている兄息子を迎えに家から出てきたのは、父であった。父は、自分に対して侮辱的な態度をとる息子にも、愛をもってなだめた。しかし、兄は父との関係において、大きな誤解をしていた。「自分は長年、奴隷のように父に仕え、戒めを破ったことはないのに、宴会を開いてもらったことなどない」と。
- 神さまに受け入れられるためには、律法(特に口伝律法)を守り、奴隷のように働くことだと信じ「自己義認」に陥っている人には、神さまの恵みによる「信仰義認」が理解できない。
- 父の促し(31~32節)
- 父は「お前の財産の所有権はちゃんと与えているよ。だから、お前の弟が死から生き返ったごとくに戻ってきたのだから、一緒に喜ぶのは当然ではないか」と、愛をもって諭した。 父親にとっては、こんなひねくれた兄もかわいい息子なので、事態の正しい理解を促したのである。
- 神さまは、律法主義者でも愛している。その業による信仰を正し、恵みを悟らせ、同じ御国に招きいれたいと願っている。