伝道メッセージの実際(2)
「いなくなった息子」(ルカ15章11~24節)から父親に焦点をあてたメッセージ
個人的適用
- 父なる神(創造主)の全知全能偏在は、自然界や人間(被造物)をよく観察すれば、当然わかるはずなのに、その神の恵みによって生かされているということを考えず「神はいるのか、いないのか」と勝手に判断してきた罪を思う。
- 父なる神は愛であるが、同時に聖であり義なるお方である。人間の罪を決して見逃すことはできない。しかし、人間には自分の罪の結果を始末することができないとご存じなので、ひとり子イエスを十字架にかけることによって、すでに罪の裁きを処理してくださった。そこに神の愛があらわされている。私が罪の中にもがいている前に、すでに救いは用意されていたとは驚くべき恵みである。
- 父なる神は、罪人である私をあらゆる方法で忍耐をもって待ち続け、ご自身の元に招いてくださっていた。父親がクリスチャンであったので、教会に足を向け、イエスに出会えたので主のあわれみだと感謝する。
- みことばと聖霊によって罪が示された時、神は私の具体的な罪の行いを責めることなく、神の子どもとして受け入れてくださっていたことは、後になって実感できた。
メッセージの実際
- 対象
- 教会学校の小学校高学年(想定)
- 霊的必要
- 聖書物語は聞いているが、神さまの愛については、個人的に味わってはいない。
- テーマ
- 天のお父さまの愛
- 中心聖句
- ルカ15:20「父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」
- 真理
- 神は私たちを愛しているので、ひとり子を犠牲にして罪の問題を解決してくださった。だから、私たちが父のもとへ帰るのを待ち続けてくださっている。
- タイトル
- 「神さまは君のことを待っているよ」
- アウトライン
- ① 人間を離れるままにさせた神の愛
- ② 罪の処理をしてくださった神の愛
- ③ 罪人が帰ってくるのを待ち続ける神の愛
「神さまは君のことを待っているよ」
導 入
みなさんは、お父さんやお母さんが、自分のことを大切に思ってくれてるなあ、と感じるのはどんな時ですか。欲しいものを買ってくれた時?良いことをしてほめられた時?悪いことをしてしかられた時?全部かもしれませんね。聖書に「神は愛です」ということばがありますが、神さまは私たちをどんなふうに愛してくださっているのでしょう。
人間を離れるままにさせた神の愛(11~12節)
あるとき、イエスさまがこんなお話をしてくださいました。あるお父さんに二人の息子がいました。ふたりとも、お父さんと一緒に住んでいて、召使もたくさんいて、何一つ足らないものはない豊かな生活でした。ところがある日弟の方が、「お父さん、ぼくがもらえるはずの財産を今のうちにください」と言ったのです。財産分けというのは、普通は親がなくなったらするものです。それでも、お父さんは、自分の財産を息子たちに分けてやりました。そしたら、弟はそれを全部お金にかえて、遠い国に遊びに行きたくなって家を出ていってしまったのです。なんという親不孝者でしょう。それにしても、お父さんはどうして、息子のいうことは良くないからと「それはできないよ。お前が悪いことをしてしまうといけないからね」と止めなかったのでしょうか。
このお話はたとえ話です。このお父さんは私たちの天のお父さま、神さまのことをさしています。
神さまは、私たちひとりひとりをとっても愛してくださっているので、私たちが生きていくのに必要なものを何でも与えてくださっています。でも、一番望んでおられることは、私たちが「私も神さまが大好きだから、神さまと一緒にいて、ちゃんと言うことを聞いて生きます」という心をもつことでした。そのために、神さまは私たちをロボットのように造られませんでした。自分から進んで神さまに従ってほしいので、たとえ私たちが神さまから離れても、無理やりそれをやめさせようとはなさらないのです。それを良いことに、私たちは「神さまなんかいらないよ。自分の好きなことをしたい」と生きています。さあ、そうするとどんなことがおこるかしらね。
罪の処理をしてくださった神の愛
弟息子は大金持ちになって、どんな生活をしていたと思いますか。もちろん、どんどんジャンジャン無駄遣いして、悪い友達と一緒に悪い遊びばかりして過ごしました。それで、とうとうすっからかんになってしまったのです。そんな時、その地方では大変な日照りが続いて食べ物がまったくなくなってしまいました。息子は仕方なく、農家に行って、豚の世話をしなくてはならなくなり、とってもみじめな生活になってしまったのです。お父さんの家にいたら、こんな生活にはならなかったのにね。
私たち人間も、神さまを信じて生きていたら、絶対にみじめな生活にはなりませんでした。でも、今は、世界中がコロナで苦しんでいるし、地球の天候がおかしくなって、大雨で洪水が起こったり、バッタが作物を食い尽くしていたりします。国と国がけんかして、戦争もあります。お互いの心が冷たくなって、いじめたり傷つけたりすることもたくさんあるでしょう。そして、人間は最後にみんな死にますね。これは、もともとは人間が神さまから離れてしまったから起こってきた苦しみなのです。では、神さまはこのことをじっと見て、「お前たちが悪いから、当然なのだ」と腕組みをしているだけなのでしょうか。
神さまは聖く、正しいお方です。人間の裏切りには罰を与えなくてはなりません。でも、神さまは私たちを造った天のお父さまです。ご自分が造られた私たちのことをとっても大切に思って、罰を与えたくないとお考えになりました。そこでひとり子イエスさまを送ってくださったのです。イエスさまは私たちの代わりに罰を受けて十字架で死んでくださり、三日目に復活してくださいました。ですからこのイエスさまを信じれば、私たちは、神さまから離れたことや悪いことをしたことが全部赦されて、たとえからだが死んでも天国で永遠に生きられる新しいいのちを与えられるのです。
罪人が帰ってくるのを待ち続ける神の愛(20~24節)
さて、弟息子が家出してからというもの、お父さんはどんな気持ちでその帰りを「今か、今か」と待っていたことでしょう。毎日、戸口に立って、遠くに息子の姿が見えないかと目をこらしていたのです。そして、ある日、とうとうずーと遠くに、息子の姿が見えました。服はぼろぼろで以前の姿とは全く違っていましたが、お父さんにはちゃんとわかりました。お父さんはもう年をとっていましたが、息子のことがかわいそうでたまらなくなり、思わず駆け寄って、息子の首を抱き、口づけしました。「息子よー」「お父さん、ぼくが悪かったのです。もう息子なんて呼ばれる資格はありません。」「何をいっているんだ。お前はわたしの息子だ。おーい、みんな、この子に一番良い服を着せておくれ。息子の印の指輪と新しい靴を用意して。さあ、お祝いしょう。この子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」
みなさん、お父さんはどうしてこんなに息子を優しく迎えることができたのでしょうね。それは、もう息子の裏切りは全部赦していて、ごめんなさいと言ってきた息子をまるで生き返った子どものように感じたからです。お父さんはこの時をずっと待っていました。本当の親子としてお互いに愛し合うことができる日のことです。
天のお父さまの神さまは、みなさんのことを今日も待っています。「君がわたしのことを知らないで生きてきてしまったことはもう全部赦しているよ。もう罰なんて受けなくていいのだよ。イエスを信じたら、新しいわたしの子どもだよ。早く帰ってきておくれ」と今日も待っていてくれるのです。それほど、みなさんひとりひとりを、神さまは愛してくださっているのです。「神さま、こんなにも良くしてくれてありがとう。イエスさまを信じてあなたの子どもにしてください」とお祈りしませんか。