No.28 聖霊を悲しませる腹話術

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

エペソ人への手紙4章30節

「私はゴスペル腹話術師」だと自称する方々の中に、実際には「これがゴスペル?」と首をかしげてしまう内容の腹話術をする人たちがいます。その人がクリスチャンであることは確かだとしても、どうやら腹話術に対する心構えに問題があるようなのです。今日は、これまで私自身が葛藤してきたことや、他人の腹話術を見て感じてきたことなどを総合して、この「ゴスペルにならない誘惑」というものと向き合ってみたいと思います。

「腹話術はおもしろくなくてはいけない」と思う

これは、術者も観客もほとんどの人が「腹話術」に対して抱いているイメージです。そこで、術者は、とにかく笑わせようと考えて、人形に冗談を言わせるわけです。その時、自分は神様に仕え、神様の愛を伝えようとしているのだという本来の立場を忘れてしまうのです。たとえ、人形の言った冗談で観客が笑ったとしても、その笑いはどんな性質のものでしょうか。単なるダジャレですか。(例「今日はザアカイさんの話をしましょう」「アーソーカイ」などという崩し方は問題です。)そのことによって、神のことばの権威が地に落ちてしまい、聖霊は働くことができなくなります。聞いている観客の心が、神様から離れて、とんでもないところに引きずられていくのです。このようなミスは台本を作成する段階で避けることのできるものです。くれぐれも台本を読み返して、自分が笑いを作ろうとしている箇所がゴスペルにふさわしいかどうかを自問してみましょう。

「私はどうせ前座だから」と思う

これは、多くのアマチュア腹話術師に見られる傾向です。この場合、本人は「私はゴスペル腹話術師なんて名乗るほどではありませんから、腹話術でゴスペルをやる者です」と言うかもしれません。けれども、よく考えてみてください。単なるお楽しみ会やかくし芸大会で腹話術をやるならまだしも、クリスチャンとしてみことばを伝えるために、神様のお役に立ちたいという思いで集会の奉仕者として立ったのなら、あなたは立派な「ゴスペル腹話術師」なのです。その自覚をまずもっていただきたいと思います。もちろん、「私の演技の後で、牧師がちゃんとメッセージをしてくれるので、私がメッセージしてはいけないと思うし、あくまでも前座なのです」と答えるかもしれません。果たして、牧師のメッセージの前に登場する方々は、みんな前座なのでしょうか。前座なら、適当に心をなごませるためにやればいいのでしょうか。それでは、たとえば、音楽家が賛美をささげるのも前座でしょうか。彼らは、前座だからと思って、いいかげんに演奏したり歌ったりするでしょうか。いいえ、彼らは、神様から与えられた賜物を磨き、全力を傾けて主に向かって賛美をささげることでしょう。それは、彼らもまた、牧師がメッセージを語ると同様に、神様に仕え、神様を賛美する者として選ばれているからです。ですから、ゴスペル腹話術も、牧師の語るメッセージと競合するわけではありませんし、あくまでも、人々の心を神様に向けるために、聖別された内容の腹話術でなければならないのです。もし、内容的に、ダブるのではないかという恐れがあるなら、あらかじめ、牧師がどんなメッセージをするか、また、その日の集会の全体的なテーマは何かを確認しておくと良いでしょう。大切なことは、あなたが奉仕をするということは、あなたが腹話術師としてうまいか、おもしろいか、をアピールするために演じるわけではないということです。集会では、腹話術を含めたすべての奉仕者がそろって神様をほめたたえ、福音が語られ、人々の心が探られ、主に応答していくこと・・・これが一番の目的なのです。とすれば、「自分が目立ってはいけない」と卑屈になることもおかしいし、後で「良かったわ」と言われるかどうかと、人の評価を気にすることも、奉仕者としてはふさわしくない態度なのです。己を捨て、神様の顔だけが見える集会になるように、キリストの体の一器官として仕えたいものです。