No.32 キャラクター作りを妨げる術者の態度
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」
ピリピ人への手紙2章3節
人形が明確なキャラクターを持ち、そのユニークさを発揮している台本を書くことは本当にむずかしいことです。けれどもいったん、そのコツをつかんでしまえば、今度は、台本を書くことが実に楽しくなることでしょう。なぜなら、腹話術は人形が主役だということがわかり、ますます人形に愛情を感じることができるからです。それは、まさしく、人形との二人芝居ともいえる腹話術の醍醐味です。
ところで、この人形のキャラクター作りの上で、一番問題なのは、術者本人の人形に対する心の態度ではないかと感じることがありますので、今回はその弊害について、いくつかあげてみたいと思います。
人形はあくまでも人形だと思う時
もし、腹話術師が、自分の人形を「ただのおしゃべり人形だ」と考えているなら、その時点から、キャラクター作りは不可能だと言わざるをえません。なぜなら、ただの人形は、普通はしゃべりませんし、ここで言う「おしゃべり人形」というのは、「術者がしゃべらせている人形」だという意味になるからです。従って、その人形には「いのち」も「心」もありません。私は、ゴスペル腹話術にはノンクリスチャンによる腹話術にはない「いのち」と「心」があると信じる者ですが、それは、術者自身がその人形を生かすという意味ではなく、人形を与えてくださった創造主なる神から注がれた「いのち」と「心」があるからだと思います。従って、まず、クリスチャンの腹話術師は、人形の存在に対して、「神が私にこの子(人形ですが)を与え、いのちにいたることばを語るように導いてくださったのだ」という信仰に立つことが必要なのです。
また、人形はあくまでも人形だ、と考えていると、どうしても人形は術者の支配下にあるような従属関係になってしまいます。そういう心境でやっていると、「私がこの人形を選んだ」「私が名前をつけてやった」「私が洋服を買ってやった」というような、上から目線の姿勢が台詞の中から感じとられてしまうのです。そのような関係では、人形はまるで術者に仕える奴隷です。人形が「言いたくないことを言わされて」「動きたくない動きを動かされて」というような愚痴をこぼす台詞を聞いたことがありますが、(たとえ観客が笑っても)そのようなことをしゃべる腹話術の中に、人形のキャラクター性を見出すことは不可能です。
そういうわけですから、人形のキャラクターを育てるためには、もっと術者がへりくだって神の前に謙遜になり、人形の存在価値を高いものとして受け入れなければなりません。そうすれば、人形の心はきっと「高い所」「広い所」に導き出され、大きく息をして、自由に語り始めることでしょう。
人形の台詞で笑いを作ろうと焦る時
いつも語っていることですが、腹話術というと、観客も何らかのおもしろさを期待しますし、そこで、術者もつい、人形の台詞で観客を笑わせようとします。ある人が言いました。「聖書はつまらないから、ギャグでもダジャレでも入れて、時には笑わせなくては話がもたない」と。それは、大きな勘違いです。多分、その人は、聖書をよく読んでいないか、神との交わりに欠けた人だと思います。
聖書は生きた神のことばであり、神(イエス)は実にクリエイティブで、ユーモアもあり、ゆかいな方でもあります。笑いも涙もあるのです。そして、神に造られた人間もまたおもしろい存在です。ですから、人形にキャラクターをもたせることは、根本的に楽しい作業ですし、父なる神は、あなたという非常にユニークな人物を通して、「人形のかたち」を与えてくださるのです。つまらないギャグやジョークからはきっぱりとお別れし、もっと天地創造の神とその被造物(人間を含めて)を霊の眼で見つめてみようではありませんか。そこには、創造主の知恵と力に満ちた、実に味わい深い世界が繰り広げられているので す。
2014年6月27日