No.41 人形の心を表現する①
「人はうわべを見るが、主は心を見る」
Ⅰサムエル16:7
腹話術師のみなさんにとって、おそらく一番苦労するのは「台本書き」で、その次には「人形操作」でありましょう。そこで、これまでの集中セミナーでは、交互にそれにまつわるテーマを取り上げてきました。けれども、私自身、このような学びは、どうしても表面的になってしまい、「なぜそうなのか」という内面的な(根源的な)所には届いていない、と感じるようになりました。
最近思い出したのですが、私が人形タカちゃんと共に児童伝道に専念していた頃、ある友人牧師が、不思議そうな顔をしてこう言ったのです。「見るたびにうまくなるねえ。めぐみさんには人形の気持ちがわかるの?」―これは、当時の私には思いがけない感想で、なんとも照れくさいような、こそばゆい気持ちだったのを覚えています。
けれども、今そのことばを思いめぐらしてみると、この「人形の気持ちがわかる」ということは、実に重要なポイントなのだと知らされます。もちろん、当時の私の腹話術は、まだまだ未熟でしたが、少なくとも、タカちゃん相手に台本を書くことは少しもおっくうではなかったし、その台詞に合った動きも無意識でしたが、それなりにできていました。そうなると、「人形の気持ちがわかる」ことこそ、台本書きと人形操作の原点だと言えるのではないか・・・そんなふうに思えてくるのです。そこで今回から、人形の「心」と「台詞」と「動き」の関係について、少しずつ具体的に考えてみることにした次第です。
人形には心がある
私は常々、「腹話術は一本線ではなく、二本線ですよ」と言ってきました。それは、術者と人形の人格が別々であるということです。初心者の段階では、どうしても“術者自身が人形の台詞も言っている一本線の会話”状態になりますが、それでは厳密な意味で、腹話術とは言えません。人形は、術者とは独立した一個の存在であり、れっきとした人格(正式には「にんかく」でしょうが)があるのです。従って、術者が好きなように操ることはできない意志というものをもっています。もちろん、これは芸術的な意味で「創作したキャラクター」ですから、それを作るのは術者であることからすれば、術者の意志によって作り上げているとも言えるのですが、それでも、出来上がったキャラクターには、特有の心があるのです。まず、そのことを意識していきましょう。
人形の身になって考える
人間関係でも、会話をスムーズにするためには、“相手の身になって物を言う”ことが重要ですが、腹話術の術者と人形との関係も同様です。
「キャラクター作り」の項目で学びましたが、みなさんの人形には、基本的に「かたち」ともいうべき設定があるでしょう。(性別、年齢、性格、職業、家庭環境、信仰の有無など)台本を考える時には、その人形の立場に立って、話の話題について、術者はどう考え、人形はどう考えているのか、ということを別々に扱う必要があるのです。そして、その立場の違いを明確にし、対話していくことです。その時に、すれ違いや勘違いなどが起こるので、話はおもしろくなるわけです。
人形の身になって感じる
これは、以前も指摘した覚えがありますが、多くの腹話術師は、人形の感情表現に気を配ることを忘れがちのようです。人形は直接神によって造られた被造物ではなく、人間の創作による架空のキャラクターなのですが、私たち人間と意思疎通ができ、感情も共有できる―腹話術を賜物としてくださった主は、私たちと人形のそういう関係を許しておられると信じます―存在です。ですから、私たち人間のように、その日によって気分が違い、天候や出来事によって感情に起伏がある、ということを心に留めましょう。ということは、決して固定された「かたち」通りの会話や反応しかしないわけではないのです。基本的には明るい性格の人形のはずが、その日に限って落ち込んでいる、というようなこともあるわけです。そういう喜怒哀楽というものをいかに台詞として表現するか・・・それは簡単なことではありませんが、ひとつのお勧めは、演技の時以外でも語り合い、祈り合うということです。そうすると人形の気持ちが少しずつわかってきます。是非実践してみてください。
2017年6月23日