No.1 アンナのように

 2023年10月に、私もとうとう70歳を迎えました。「とうとう」というのは、70歳になった途端に、心境が大きく変化したからです。
 みことばの詩篇にもこう書いてあるではありませんか。

「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年。」詩篇90篇10節

 こういうと、「いやいや、これは旧約時代の人生観ですよ。現代は人生100年時代ですからねぇ」と反論する方がいるかもしれません。もちろん、100歳前後まで健康で、仕事を現役で続ける方もおられますし、近年、日本人女性の平均寿命は87歳だと言われているのは事実ですが、やはり、時代を超えて、聖書のこの一節は、現代でもおおむね当たっているような気がしてなりません。
 ですから、この詩篇の別の節もまた、ひどく心にしみるのです。

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」12節

 “自分の日を数える”とは何をしたらよいのでしょうか。そして、“知恵の心を得る”とは、どんな知恵を求めることなのでしょうか。
 もちろん、すでにキリストにあって救われている者は、死後の世界を心配する必要はありません。いつ、どんなふうに地上の人生が終わったとしても、主が責任をとってくださいます。
 だからといって、これから先、当然ながら年々老いていくにつれて「ああ、年を取ったなあ…昔はできたことができなくなった」と、つぶやきながら、ただ「仕方がない。これが人の道であると受け入れよう」と、自分に言い聞かせながら無為に過ごすことが、みこころなのでしょうか。
 一方、何歳で召されるかは誰にもわからないのに、勝手に「90歳までは生きる!」と断言して「それまでは、これをやって、あれをやって」と計画を練ることも、違うような気がします。
 「じゃあ、あなたはどう考えるの?」と読者のみなさんは問うことでしょう。
そこで、私の率直な祈りと願いをお分かちいたしましょう。

 ルカの福音書2章36節~38節に、アンナという人が登場するのですが、実は、この女預言者の姿が、私の憧れとなっているのです。

「また、アシェル族のペヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代の後、七年間夫とともに暮らしたが、やもめとなり、八十四歳になっていた。彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、夜も昼も神に仕えていた。
ちょうどそのとき彼女も近寄ってきて、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った。」

 アンナは、やもめになってから、どんな生活をしていたのかはわかりません。けれども、おそらく、若い頃から「エルサレムの贖われること」のために―すなわち、メシア到来を祈りつつ待ち望みなさい、という召しを受けていたのではないでしょうか。そして、いよいよ高齢になってからは、人々に仕えることはさておき、ただひたすら、神に仕えるために、断食と祈りをもって、昼夜その召しに専念していたことでしょう。そうして、84歳になって、とうとう、メシアなる幼子イエスさまと出会うことができたのです。そうして、彼女が人生の最後にできたことは、「エルサレムの贖い主が誕生しましたよ。私は幼子を見ましたよ」と人々に証言したことでした。(召された年はわかりませんが)

 私がどうして、このアンナに強烈に惹かれているのか。それは「アンナ」という名前が「めぐみ」という意味だから、だけではありません。むしろ、それ以外には特に共通点があるわけでもないのです。私は女預言者でもなく、やもめでもなく、まだ84歳でもありませんから…。それでも、私は、心の底から「晩年には、彼女のような人生を送りたい!」と熱烈に求めているのです。
 今から約50年前、私はイエスさまから「わたしの小羊を養いなさい」(ヨハネの福音書21章15節)と御声をかけられて、献身しました。その時、同時に与えられたビジョンは、「日本の諸教会と、日本人クリスチャンのために仕えること」でした。
 思い返せば、神さまはこの分野に仕えるために、様々な奉仕のための賜物をくださり、たくさんの教会と交わる体験をも与えてくださいました。それが、腹話術伝道であっても、神学校の講師であっても、本を書くことでも、特別集会のゲストスピーカーでも、何をやっても、根底にある重荷と使命感は全く変わりませんでした。
 確かに、年齢と共に、その時々の用いられ方は、形が変わってきましたが、このビジョンは、生涯の召しとして、最後まで変わらないと思えるのです。

 アンナは、メシアの初臨を待ち望んでいたことでしょうが、今の私たちが待ち望んでいるのは、主の再臨です。エルサレムの贖いの時を包含した、全人類と被造物全体が完全に贖われる時を待ち望む時代に生かされているのです。
 私が何歳まで地上に生かされるか、どんなふうに年をとっていくかは、神のみぞ知るですが、「私の最後のご奉仕は、ゆだねられたビジョンにそって、ひたすら祈りによって、主に仕えること」―それが、私の今の幻であり、目標であり、切なる願いなのです。

2024年6月3日