No.2 我が家はキリスト教なんだ

 私が物心ついた頃、毎週日曜日の朝になると、父がラジオをつけて、なにやらドラマのような会話が聴こえてきました。私は大抵、まだ布団の中でしたが、何となく惹かれる思いで、聴き耳を立てたものです。後で知ったのですが、それは、「ルーテルアワー」というキリスト教の番組でした。その後、父は朝ごはんを食べると、自転車に乗って、ひとりででかけていきました。教会の礼拝だったようです。
 父の信仰生活については、私が大人になってから知らされたこともありますが、今となってはわからないこともたくさんあります。ただ、子どもの頃は、母を通して、「うちはキリスト教だから」ということばを聞かされて、「そうなんだ。お父さんはクリスチャンだから毎週、教会に行っているんだ」とそれなりに納得していたものです。
 小学生の頃の私にとっては、“キリスト教”という言葉は、とてもハイカラな感じがしました。何しろ、群馬県高崎市の田舎で、周囲には農家や養蚕の家が多く、いわゆる“仏教”の習慣で生活していたわけで、キリスト教の家なんて、一軒もなかったのです。
 そういえば、我が家の居間の壁には、常に、ミレーの『晩鐘』とか『落穂拾い』などの聖画がかかっていました。
 また、クリスマスは大変な時でした。12月に入ると、父がどこからか、本物のモミの木を運んできて、天井の低い我が家の居間に持ち込みますので、私は胸を躍らせながら、ツリーの飾りつけをしました。私には7歳上の姉と5歳上の姉、そして3歳上の兄がいたのですが、どうやら一番夢中になっていたのは末っ子の私だったようです。クリスマス当日までの間、私はこのツリーを近所の友達に「どう?めずらしいでしょう」という思いで、胸を張って見せたものです。
 そして、12月24日のクリスマス・イヴの夜は特別でした。貧しい我が家でも家族総出で、クリスマス・ディナーを作ったものです。メニューは大概決まっていて、かんぴょう、きゅうり、卵焼き、そぼろの入った海苔巻きと、まぐろの握り寿司、バナナと缶詰のフルーツポンチ、そして、母の手作りのケーキでした。今思えば、それほど美味ではありませんでしたが、それでも、当時は大変な御馳走だったのです。
 楽しい夕食が済むと、決まって、教会からの聖歌隊が庭先に来てくださって、『きよしこの夜』などの讃美歌を歌ってくれました。そんな時は、父がひとかたまりのバナナの袋に“Merry Christmas”と書いて、おささげしていたものです。
 そうして、いよいよ、子どもにとっては一番のお楽しみである「サンタクロース」を待つ夜がやってきます。といっても、私はいたって夢のない子どもで、「サンタなんているわけない。親がプレゼントを用意しているのさ」とわかっていました。それでも、何か待ち遠しいので、床についても夜中まで眠ったふりをして待っていました。すると、薄明りの中、母らしき気配がして、ツリーの飾りである小さな紙の長靴を取って、その中にポトリと何かを入れて、私の枕元に置いていくのです。私はその後、ガバッと起きて、中身を調べます。100円玉でした。「ちょっと少ないけど、まあいいか」と思いつつ、眠りにつきました。当時の毎日のお小遣いが5円だった時代です。100円は、私にとってはそれなりにまとまったお金であり、クリスマスプレゼントには違いありません。姉や兄にはいくらだったのか、確かめたことはありませんが、母も4人の子どもに公平にと、さぞかし考えあぐねたのだろうなあ、と思います。

 父がクリスチャンであったことによって、子ども心に忘れられない台詞がありました。それは、ある夜、こんなことを言っていたからです。
 「教会ではな、人が死んでも喜ぶんだ。」
私はびっくりしました。いったい誰が、人が亡くなって、お葬式の時に喜ぶだろうか、そんなことありえない、と思ったのです。でも、その時には「お父さん、それはどうして?」とは聞けませんでした。私と父との関係には、かなり距離があったのです。
 また、父が私に買ってくれた1冊の本がありますが、それは「絵本聖書」でした。小学生の時は、学校の図書館からしばしば本を借りて、色々読んでいた私でしたが、この絵本聖書の中身については、それほど興味を持てませんでした。それでも、そこに描かれていた絵については、かなり目にやきついていたものです。この1冊の絵本の絵が、後に、私の人生にとって最大の危機の時に用いられるとは、よもや想像もできませんでしたが…。

 このように、子どもであった私にとっては、「我が家はキリスト教なんだ」という事実は、何か特別な感じでしたが、イエスさまも知らないし、自分の存在の根本にかかわることだとは、思いもつきません。ですから「大きくなったら、教会へ行ってみたい…」と、心の中で、私は淡い憧れをもつ程度だったのです。
 けれども、天の神さまにとっては、もっと壮大な視点をもって、愛のまなざしを私にも向けていてくださったのだと後になって知らされ、その真理に圧倒される思いです。

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
エペソ人への手紙1章3~6節

2024年6月17日