No.5 みことばとの出会い

 我が家は、私が物心つく頃から“キリスト教”的なムードはありましたが、父は自分ひとりで教会に通っていましたし、子どもたちを「教会学校」に連れていってくれることもありませんでした。(尤も、終戦直後の教会で、「教会学校」などはなかったかもしれませんが。)
 そんなわけで、私が最初に聖書のみことばに出会ったのは、中学生の時で、それも高校受験のための勉強を通して、と言えるでしょう。

 私の中学生時代というのは、勉強もスポーツも部活も、何もかも一生懸命になっていた頃で、入学してすぐは、ブラスバンド部に入り、ドラムを担当して、朝礼で演奏するのが心地良いものでした。ところが力余って、次には軟式テニス部に入り、夏休みには、仲良しの女の子と毎日のように校庭で練習し、顔も手足も日焼けが目立つほどになりました。
 そんな私の生活を母から聞いた父が黙っているはずはありません。「運動部なんぞにうつつを抜かしていたら、高校入試に受からないぞ。すぐにやめろ!」と叱られ、泣く泣く退部となりました。そして、中学3年生の夏休みは、毎日学校の教室に通い、ひとりで受験勉強をしていたものです。運動部顧問の先生には「高橋、テニスやめたのか。あとで後悔するぞ」と声をかけられました。実際のところ、運動の習慣がそれ以来プッツン切れてしまったことは(大学時代のスキーは別として)、大人になり、年を重ねれば重ねるほど、つくづく残念に思えてなりません。

 それでも、受験勉強の中で、今思えば、大変幸せなことがありました。国語の知識を増やそうと思い、有名な小説のダイジェスト版の本を興味深く読んでいた時、いくつかの心に残ることば(それが、聖書からであることは知らなかったのですが)と出会ったのです。
 まずは、夏目漱石の『三四郎』の中に、繰り返し使われていた「ストレイシープ」(迷える羊)ということば。それと、「みねこ」という登場人物が最後につぶやいた「われはわが咎を知る。我が罪は常にわが前にあり」という台詞です。それが、文脈の中でどういう意味として用いられていたかなど、全く理解できませんでしたが、このことばは、なぜか私の魂にまで染み込んでくるようで、忘れられず、思わず生徒手帳に書き写したものです。(後にクリスチャンになってから、詩篇51篇3節であることに気が付きましたが。)
 次には、アンドレイ・ジイドの『狭き門』で、見開きに「狭き門より入れ」と書いてあることばにも気持ちが惹かれました。何か、わからないけれど、人間がとっても重要なことを体得するためには、広い門ではなく、狭い門を選ばなければならないのかもしれないと、ぼんやり感じたのです。(もちろん、後に、マタイ7章13節とわかりました。)
 もう一つのみことばは、これは本からではなく、美術の先生がある時、教えてくれたものです。彼は、さすがに美術を教えるだけあって、風貌も言葉も破天荒でユニークでしたが、学年の最後の授業のあたりで、私たち生徒にこう語りかけたのです。
「いいか、みんな。世の中に出たら、このことばを忘れるんじゃないぞ」と大きな声で言うと、黒板にチョークでこう書いたのです。
「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
 その時は、「ふ~ん。この先生、変わり者だけど、結構、まともなこと言うじゃない」と思っていましたが、このことばも心に残りました。もちろん、これは大変有名な“黄金律”として、マタイ7章12節(ルカ6章31節)にあるイエスさまのことばです。今となっては、この先生がクリスチャンであったかどうかは全くわかりませんが、大変重要なみことばを教えてくださったと、感謝するばかりです。

 このように、聖書のみことばというのは、何と広く、この世にちりばめられていることでしょう。けれども、残念なのは、それが、聖書が本当に意味しているところとは違った意味合いで、人々に使われているということです。
 その代表的なみことばのひとつに、「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7章7節)があります。私も、このみことばについては、いったいいつ、どんな時に耳にしたのかは記憶にありませんでした。あらゆる場面で、人々が「『求めよ、さらば』だよね」と口にしているのですから。
 けれども、やはり聖書のことばは生きています。そのみことばに聖霊が働く時、本来の目的(人間の魂の救いと変革)のために、偉大な力を発揮するのです。
 私も、19歳で人生に絶望し、自殺を考えるほど悩んでいた時、主はこのみことばをもって、私を守ってくださいました。「求めよ、さらば与えられん」は、「わたし(神)を求めなさい。そうすれば、あなたはいのちを得る」と響いてきて、私は、「神さま、あなたは本当におられますか。あなたは本当に愛ですか。それなら、私に生きる力を与えてください」と応答できたのです。
ハレルヤ!そうして、クリスチャンになってから、中学生の時に出会ったみことばの箇所と意味を深く味わうことになりました。
 この世には、私たちが想像する以上に、みことばの種は蒔かれており、私たちは、それをひとつひとつ拾い上げて「これはね、本当はこういう意味なんですよ」と、丁寧に説明するだけで、大きな証しのチャンスになるのかもしれません。

「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。」テモテへの手紙第二3章15節

2024年8月5日