No.7 すべてを捨てて

 大学2年生の10月にバプテスマを受けた私の生活は、その日から一変しました。
そもそも、私が大学で声楽を習っていたことを知った教会員は、私を聖歌隊に招き入れようと手ぐすね引いて待っていて、受洗当日の夕礼拝から、私は聖歌隊メンバーとなって賛美したのです。また、大学卒業後は小学校の教員となる予定でしたので、翌年の4月からは、教会学校(小学科)の教師として奉仕するようになりました。従って、日曜日は、朝8時30分までに教会へ行き、教会学校が終わって、礼拝があり、昼食後は、青年会、聖歌隊練習、時には訪問伝道、夕食も教会で済ませ、それから夕拝(聖歌隊奉仕)に出席して、夜9時過ぎにようやく家路につくという具合です。
 それでも、私にとっては、本当に充実した喜びに溢れた日々でした。歩いていても、目の前の景色がモノクロからカラーに変わったように、人生は光り輝いていました。「ああ、このままずっと、一生、イエスさまのお手伝いができたらいいのに」と思ったほどだったのです。

 そうして、大学を卒業後、都内の小学校に就職したのですが、私にとって、「教員」という仕事は、実はそれほど心地よいものではありませんでした。もともと、生涯続けたいと願った職業でもなく、それでも生真面目な私は、“過適応”を起こし、だんだんと息苦しさを覚えてきました。まるで、重箱にぎゅうぎゅうに押し込められて、入りきらないで、身体がはみ出しているような感覚です。
 ようやく一学期が終わって夏休みになり、教会の教団主催のキャンプがあって、そこへ参加した私は、「このキャンプで、神さまは私に何か語りかけられるような気がする」という不思議な聖霊の導きを感じていました。すると、どうでしょう。最終日のメッセージは「神さまに生涯を献げなさい」という勧めだったのです。
 私は、瞬間的に「それはできません!」と心の中で反発しました。「母が苦労して大学に出してくれて、ようやく学校の教師として就職できてほっとしているのに、そんな親不孝はできない。それに、近い将来、結婚を考えている人もいるし、私が献身したら結婚もできなくなるじゃないの…」といった思いが頭をよぎったからです。

 けれども、「これが神さまからの私へのご命令?」という思いは振り払うことができず、帰宅して部屋のドアを開けた途端「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(ピリピ3章8節・口語訳)というみことばが響いてきたのです。「ああ、イエスさまのために生きることは、今大切に思っていることとは、比べ物にならないほど素晴らしいことなのかもしれない」と心が震えてきました。
 それからしばらくして、教会のあるご夫妻のお宅で、祈っていただくために交わってから床につこうとした途端、「あなたはわたしを愛するか」という主の御声を聞いたのです。私は、すぐに聖書を取り出し、ヨハネによる福音書21章を開いて読みました。

彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。15節・口語訳

 その時、私の心は定まったのです。「ああ、これは確かな召しなのだ。私は、これから生涯をイエスさまに献げていこう。今のような一般教育ではなく、教会教育(クリスチャンの教育)のために仕えていこう。」

 こうして、私は、救われてたったの3年で、「献身」をしたわけですが…。
何しろ、今から50年も前の出来事です。当時の献身者像は、今の時代とは相当違っていました。とにかく、“この世のものをすべて捨てること”でしたから、私は、真っ先に、お付き合いしていた兄弟に別れを告げ、(献身した女性は、信徒とは結婚しないという暗黙の“掟”があったのです。)これまでレッスンに通っていた声楽もやめ、校長先生に、翌年3月に退職する旨を伝え、すぐに聖書の通信講座に申し込みました。退職後は、神学校へ行くと決心していましたので、その準備をしなくては、と思ったのです。
 もちろん、母に手紙を書くと、母は烈火のごとく怒り狂い、「そんなことのために、お前を大学に出したんじゃあない!男なら勘当だ。キリスト患者め!」というものすごい返事がきました。「いくらなんでも、これはひどい」と泣きながら、手紙を牧師夫妻に読んでいただくと「それはあなた、お母さんの身になってみれば当然でしょう」と言われてしまいました。

 救われてはいても、クリスチャンとしては誠に未熟で、信仰の何たるかもわからなかった私でしたから、この突然の決断に対しては、家族はもちろん、教会の人々も、ほとんどの人が賛成ではなかったと思います。たくさんの人々を驚かせ、泣かせ、怒らせ、困惑させてしまいました。事実、その後の私の歩みは、まことに波乱万丈で、自分でも「よくぞここまで」と思いますが、ただただ、主の恵みとご真実をほめたたえるばかりです。

「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ人への手紙11章29節

2024年9月9日