No.11 天狗の鼻が折れる時
アメリカ留学を決意した時、私はもう腹話術はやめても良いと思っていました。それでも、10年間苦楽を共にしてきた人形タカちゃんだけは手離す気にもなれず、一応連れて行くことにしたのです。それが、その後の腹話術人生を大きく変えることになるとは夢にも思いませんでしたが―。
神学校の入学許可が下りてから、9月までかなり時間があり、ある日、骨董屋に立ち寄ったところ、人形に関する雑誌が目に入りました。パラパラめくったところ、たくさんの腹話術師と人形たちの集合写真が出てきたので、びっくり。アメリカでは、毎年7月に「ケンタッキー腹話術師コンベンション」なるものが、開催されているというのです。「へえ~こんなことがあるのか。じゃあ、せっかくアメリカにいるのだから、ちょっとだけ覗きに行ってみようか」と、私は軽い気持ちで出かけることにしました。
コンベンション会場について、私が真っ先に度肝を抜かれたのは、腹話術人形を扱うディーラーが大きな部屋の2つを陣取って、所狭しとテーブルを出していたからです。これまで、腹話術人形というのは男の子や女の子と相場が決まっていた日本です。それが、子どもよりむしろ大人、おじいさん、おばあさん、マダム、それに、鳥や恐竜もいれば、花やカエルや蛇もいる…とにかく、あらゆるものが腹話術パペットとして販売されているではありませんか。私は夢中でカメラのシャッターを切りながら、「こんな世界があったのか」と目を丸くしていました。
しかし、それはまだまだ序の口。いよいよプログラムが始まって、夜の「プロショー」になると、さすがラスベガスやナイトクラブ、世界を巡る観光船でエンターテイナーとして活躍している人などが次々と出演します。(この集会はもちろんセキュラーでしたが、不思議に清らかな笑いに満ちていました。)私は、それぞれのユニークな人形やパペット、声色、動き、演出、そしてもちろん絶妙な間の台詞(私にはもちろんジョークの意味はわかりませんでしたが)に、なぜかおかしくて、腹をかかえて笑っていました。
それから、夜9時からは夜中まで「オープンマイク」と言って、誰でも演じられる枠があり、何と私はそこで無鉄砲にも、たどたどしい英語で「四つの法則」を演じたのです。教会でもないのに、神・罪・救いの台本です。会場は途端にシーンと静まりかえってしまいました。終わってから、ひとりの老婦人が近寄ってきて「感動したわ」とひとことコメントしてくれた時、私は自分がどれほど“身の程知らず”であったかに気が付きました。
そうです。私は傲慢でした。「タカちゃんなんてもうやめる」と思いながら、「私は日本の春風マリヤだ」といういっぱしの腹話術師のつもりでいたのです。下手な英語台本を隠し持っていて、あわよくば演じて見せようとしていたのがその証拠です。
「主よ、私は愚かでした。自分がただの“井の中の蛙”であることをわきまえず、何者であるかのように、アメリカに来てまで人の前に立ちました。」
私はその晩、「もう、このコンベンションでは二度と演じまい。私にプロとしての腹話術が身に着くまでは」と決心しました。本当に、自分はここでは“初心者”だと悟ったからです。
そもそも、私はアメリカに「キリスト教教育」を学ぶために準備してきたはずでした。ですから、やめようと思っていた腹話術なら、これほどの恥をかけば、きれいさっぱりあきらめてもよさそうなものでしょう。ところが、私にとって、「これがどん底なら、後は上を目指すだけ」というように、心はメラメラと燃え上がっていったのです。「腹話術でこれほどのことができるなら、もう一度出直せるかもしれない。これからアメリカで吸収できるものは吸収してみよう!」と闘志が湧いてきたのです。
アメリカには「自由の女神」が立っています。色んなことが自由でした。腹話術に関しても、決まったグループに属するとか、先生は誰だとか、型はこうだとか、学ぶにあたっては、全く自由でした。その上、人形やパペット、台本、訓練用ビデオ、カセット、観賞用ビデオなど、何から何まで、お金さえ払えばディーラーから入手できるのです。
私は、学校の学びが始まっても、暇さえあれば、教材を買いあさり研究しました。コンベンションにも毎年足を運びました。(他にもクリスチャンの集まりもありました。)
そんな中、人形タカちゃんの存在は“日本製”であるがゆえに、貴重なものとなっていきました。それは、世界の腹話術の歴史を研究していたふたりの歴史家と出会ったことにもよります。ひとりはイギリス生まれで、現在ラスベガス在住のヴァレンタイン・ヴォックス氏。私は彼の著書によって、腹話術の起源を知らされ、主の不思議な聖別の歴史を知りました。また、日本の腹話術も歴史の一部として、写真と共に載せてありました。もうひとりは、アメリカ人のスタンレイ・バーンズ氏。彼は私を通して、日本の腹話術についての貴重な資料を得たと、大変喜んでいました。後に彼の著書を通して、世界では「ゴスペル腹話術」という分野がすでに確立していることを知らされ、大いに励まされました。
私は日本で寄席芸人であった師匠に学んだので、「芸」としての腹話術を演じていました。けれども、アメリカでは「芸術」としての腹話術に出会ったのです。そこに優劣はないのでしょうが、私は神学校を卒業する頃には「芸術伝道」というビジョンを抱くようになっていたのです。主が私に備えられた道は、本当に思いがけないものでした。
2024年11月5日