No.21 赦し・悔い改め・癒し

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」ルカの福音書23章34節

 クリスチャンと言えども、地上にあっては苦難や試練はまぬがれません。そのような生活の中で、心身の弱い人、繊細な人々は、精神的に耐えられず、病んでしまうこともあるのです。そして、“クリスチャンの自死”という出来事も起こってしまいます。
 何と重い課題でしょうか。教会内では、今から50年も前には、「クリスチャンならうつにもならないし、ましてや自殺などするはずはない」、「そういう人は最初から救われていなかったのだ」という反応がほとんどでした。ですから、家族の内にそのようなことが起こった遺族は、クリスチャン仲間にも誰にも知られまいと、貝のように固く口を閉ざしてきました。他の病だとか不慮の事故だとかいう偽りの理由さえ使ったのです。
 最近になって、ようやく「人間とは何者なのか」が研究され、「たとえクリスチャンでも、自死するケースはありうる」という理解が広まり、以前ほどは無知と偏見に満ちた暴言は聞かれなくなりました。しかし、それでも、遺族の方々は肩身の狭い思いをかかえ、痛む心の慰めと癒しを教会内では得ることができず、ようやく当事者同士の小さな集いに居場所を見出しているのが実情です。とても残念でなりません。教会こそ、いかなる人生の重荷を持つ人も共に泣き、共に笑う場所なのではないでしょうか。キリストを中心に据えた共同体こそ、そうであってほしいと願います。

 尤も、かく言う私自身も、結果的には父の自死に関して、全き解決と癒しをいただいたのは、当時の16歳から38年後のことでした。振り返れば、何と長い年月、葛藤を続けてきたことでしょう。
 もちろん、忙しく奉仕に明け暮れ、特に腹話術に熱中している間は、心の奥底にはまだ未解決のその問題が潜んでいるなどとは、思いもよらず、ただひたすら「主のために、いかに人形で証し、伝道できるか」という大義を掲げて奮闘しているつもりでした。
 しかし、28年間の腹話術伝道に終止符が打たれてからは、何の肩書もなく“ただの高橋めぐみ”という存在が、まるで魂と遊離しているかのように、ふわふわと浮いていて、ふと気が付くと、「ああ、私は自分が誰なのか、ずっとわからなくて探し続けてきたのだ」と気が付いたのです。そして、父の問題とも向き合ってこなかったことを知らされ、ようやく、対峙する気持ちになったのでした。
 主のなさることは、いつも時にかなって美しいものです。ちょうどその頃、「内なる人の変革」をテーマにしているミニストリーが始まったばかりで、私はその学びのタイトルを見ただけで、「これだ!」と感じ、即刻申し込みました。
 すでに何もかも失っていた私は、週5日間の学びを半年ごとに4回、というスケジュールでも、近くのホテルに泊りがけで専念できました。講義のすべてが心の芯まで染み込んでいくようでした。特に、胎児の時からの親子関係からくる様々な問題が、年齢を重ねても、信仰をもっても、解決されないまま残って悪い実を結ぶことがこれほどあるのかと、驚くことばかりでした。
 その学びで、今も感謝していることは、毎回スモールグループごとに、「祈りのミニストリー」の時間をもてたことです。ひとりの人が自分でもてあましてきた重荷を打ち明け、男女混合のメンバーが、その人のために質問したり、とりなしたりしていくのです。
 私は、聖霊の促しを強く覚えて、長年かかえていた父の自死という衝撃と、直後の教会の牧師の呪いの言葉など、様々な痛みを初めて言葉にしていきました。グループのメンバーは、みんな「教会でそんなことがあったなんてひどい」「めぐちゃんが可哀そうだ」と、しばらくは泣くばかりで祈りになりませんでした。
 しかし、その場に加わっていた牧師が突然こう祈りだしたのです。「それはその牧師の罪です。その教会の罪です。私は牧師として、代わりに悔い改めます。赦してください!」
 その祈りを聞いた途端に、目をつぶって下を向いていた私の前に、十字架上のイエスさまの姿が幻として見えたのです。茨の冠をかぶり、血だらけの顔で、イエスさまは私に向かってこう語られました。「わたしに免じて、その牧師と教会を赦してあげてくれないか」と。「主よ、神の御子のあなたが、この私にお願いされるのですか?!」私はびっくり仰天して、思わず「赦します!」と叫びました。そうすると、次には、自分がどれほど父の死を呪った牧師と教会を恨んできたか、そしてそれがいつの間にか雪だるまになって、牧師嫌い、教団嫌いになっていたかに気が付き、今度は悔い改めざるを得なくなったのです。「主よ、お赦しください。私は心に恨みをかかえていたので、伝道者だと言いながら、教会を裁き回り、良い奉仕ができませんでした!」そして、号泣……。

 その後、私の痛んだ魂は、全き癒しをいただいたのです。生ける主のみことばの力とともに、「赦しと悔い改めは癒しをもたらす」という霊的原則を体験しました。
 実は、私も「抑うつ性神経症」という病気だと、精神科の医者に知らされたのは、その直前だったのです。「ああ、父親ゆずりだな」と納得できました。でも、その日以来、うつで寝込んだことはありません。たまに落ち込んでも怖くなくなりました。「何があっても主のみことばで立ち上がれる」と信じられるようになったからです。ハレルヤ!

2025年4月7日