No.22 神ハ愛

 父の問題が、38年かかって解決した半年後のことです。今度は、母との関係と向き合わざるを得なくなりました。その時、私は54歳、母は89歳で健在でした。
 私は4人兄弟の末っ子でしたから、やはりどこか甘えん坊だったのでしょう。無意識にも、器用な母にはずいぶんと洋服の“おねだり”をしました。大学生になるまで、母は私のためにスカートだけでなく、スーツやワンピースまで作ってくれました。けれども、クリスチャンの父が突然亡くなった後、私が信仰をもち、献身したことに対して猛烈に腹を立てていましたので、関係は急速に冷えていきました。それでも、私が腹話術を始めて、人形タカちゃんが活躍するようになると、今度は人形の服を羽織、袴まで作ってくれるようになりました。私が主催したステージには何度も足を運んでくれました。
 にもかかわらず、私は、母に対して、心の奥底ではなぜか“赦せない”感情をかかえていたのです。それがどこから来るのかはわからなかったのですが、何か幼子の私が「この人は私の母親なんかじゃない!」と叫んでいるような、奇妙な違和感でした。「きっと、お母さんは救われていないからだ。洗礼を受けたと言っても形式だけで、教会にも行かないし、『神さまなんか信じない』と言っているのだから」と、私は母との関係がおかしいのは信仰のせいだと決めつけて、ずっと母の救いのために祈っていたのです。

 「それは、お母さんとめぐちゃんの愛の形(愛情表現)の違いかもね」と、例の祈りのグループで、誰かが言いました。「確かに、母はお金で表現しますが、私は優しいことばが欲しいのでかみ合わないのです」と、私は答えました。「でも、どうしても何かがひっかかるなら、今のうちに直接聞いてみたらどう?期待した答えは得られないかもしれないけれど」とある姉妹が勧めてくれました。
 その時、私はハッとしたのです。「そうだ、あの一言を聞いてみよう」と決意しました。

 数日後、私は高崎に戻り、母とふたりで向き合っていました。夕食後、思い切って切り出してみたのです。
「お母さん、私が子どもの頃、『お前は男だったらよかったのに』て言ったよね。あれは、私がおてんばだったから?」と。すると、母は途端に遠くを見るような目をして、こうつぶやきました。「そうねえ、そんなこと言ったかもしれないねえ。だけど、私は子どもは3人でたくさんだったんだよ。ところが、またできたから、お父さんに内緒で下ろしてきた。するとまたできたので、また下ろした。それでもできたので『こんなにできるなら、今度は男だろう。お父さんは男ならもうひとり欲しいって言ってたから』と思った。それが産んでみたらお前だったのさ。だから、お前はおまけなんだよ。それでも、お父さんが『この子は神さまの恵みだから』て、“めぐみ”とつけたのさ。」
 私は一瞬、ことばを失いました。「それじゃあ、我が家は本当は子ども6人だったわけ…」と言って、後は黙ってしまいました。

 翌日、帰京してからは、私の頭の中を「お前が男なら」「お前はおまけ」という台詞だけが、ぐるぐると回ってしまい、何も手につかなくなりました。「これだ。これが原因で、私の中に浮遊感が漂っていたのだ」と納得しましたが、同時に絶望感も襲いました。
この衝撃はあまりにも大きく、悩み続けましたが、ある時みことばを思い出したのです。

「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」エレミヤ書1章4節

 「そうだ。私は父なる神さまによって造られ、母の胎のうちから選ばれていたのだ。親が何と思おうと、神さまは私を必要としていたのだ」ということが腑に落ち、ようやく魂に平安がきました。
 そして、「神さま、子どもを堕胎した罪を犯した母をお赦しください」と祈りました。
すると、どうでしょう。今度は、私自身の罪に気づいたのです。「ああ、私は、胎児の時から、この母に対して怒り狂い、蹴とばして『こんな奴、親の資格なんかない!』と裁いていたのだ、とわかりました。そして、またみことばが示されました。

「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。」詩篇51篇5節

 「お母さん、今まで自分勝手に生きてきて、お母さんを悲しませてきてごめんね。」
時を移さずして、私は母に電話で謝りました。すると母は、照れたように「いあや、自分勝手なのは私だから、お前は私に似たんだねえ」と答えたのです。

 その2年後、母は召されていきました。私がこのくだりを証しとして書いた本『イエスのまなざし』が出版される一か月前でしたので、本当に残念でなりませんでした。
 ところが、その後、母が亡くなる50日前に作った最後の作品が見つかったのです。
ベニヤ板の上に画用紙を張り、これまで洋裁で使った残りの黒いボタンを並べて、こんな文字が描かれていました。
 「神ハ愛」
 これが、35年間、母の救いのために祈った私への神さまからのプレゼントでした。

2025年4月21日