No.23 福音はどこから?
確か、2006年の6月のある朝、デボーションの時だったと記憶しています。
腹話術伝道「ニュー・クリエイション」ミニストリーを閉じたばかりで、これからの道筋は何も見えない中、それでも、朝のデボーションとして聖書をスケジュール通り読むことだけは続けていました。
その日はガラテヤ書3章を開いていたのですが、8節を読んだ途端、「え?!」と思いました。
「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、『すべての異邦人が、あなたによって祝福される』と、前もって福音を告げました。」
このみことばの「福音」に目が留まったのです。
それまでの私の福音理解は、とりあえず創世記3章15節が「原福音」と呼ばれているということくらいまでで、主に、新約聖書になってイエスさまが登場し、十字架と復活のゆえに、それを信じる者は救われる―その程度のものでした。
ところが、この聖句には、アブラハムの時から、異邦人が救われるという福音が、すでに語られているというのです。「そんなことを今まで意識していなかった」というのが、正直なところでしたので、この箇所は私にとっての衝撃となりました。
それはどこに書いてあるの?聖書の引照箇所を調べると、創世記12章3節でした。私は改めて、創世記12章1~3節を読みました。
主は、アブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」
これが、いわゆる「アブラハム契約」と言われる箇所で、この3節の中に、神さまの人類救済計画が詰まっているなどとは、それまで思いもよらず、本当に「目からうろこ」の発見でした。
その後、心の癒しを経て後、猛烈なみことばへの飢え渇きが起こり、私は、聖書を理解するうえで、イスラエルの歴史と異邦人教会の関係がいかに重要であるかを知ることになったのです。
これまでの私のイスラエル(ユダヤ人)への思いは、こんな程度でした。
「ユダヤ人て、なんて強情な民族かしら。せっかくイエスさまが来てくださったのに、拒否して十字架にかけるなんてことをするから、神さまに見放されることになったのよ。」
「いまだにユダヤ教で、メシアを待ち続けているなんて、気の毒としか言いようがないわ。」
「ユダヤ人がせっかく選ばれたのに、その特権はなくなったのだから、今は教会の時代。私たち教会が世界宣教をしないといけないのね。イスラエルも救われてほしい国のひとつではあるけれど。」
こんな思いがそれまでの私の中には巣食っていました。ですから、30代でイスラエル旅行に行っても、「昔、イエスさまたちがここを歩いたのか。そういえば、聖書にこんな土地の名前があったわね」くらいの感覚で、現在のイスラエル共和国が、どのようにして建国されたのか―紀元70年にエルサレムが崩壊し、ユダヤ人は世界離散し、1900年後の1948年に聖書の預言通り、この国が復興したことなど、全く興味もなかったのです。
「あなた、それでも日本とアメリカの神学校を出た人?」とみなさんにとがめられそうですが、確かに私は腹話術に夢中になっていたので、勉強不足ではありますが、原因はそれだけではないと思います。世界中の多くの神学校では、「イスラエル学」というものは授業科目に無いらしいのです。
まことに残念ではありますが、多くの異邦人クリスチャンにとって、イスラエルは聖書の中だけに出てくる国であり、この世に存在するイスラエルとは乖離しているのです。
あれから約20年も経ちましたが、私の聖書理解は、あの朝、ご聖霊が働いて下さったお陰で、すっかり変えられました。神さまは、世界人類を救うために、イスラエルを選び、御子をユダヤ人として地上に送ってくださったのです。イスラエルは確かに御子を受け入れず、ローマと結託して十字架にかけてしまいましたが、それは父なる神のご計画でもありました。父なる神は御子を死人の中から復活させ、イエスさまを人類の救い主とされたのです。今は異邦人の救いの時ですが、やがてはイスラエルもみな救われます。
「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」ローマ11:29
アブラハム契約が、イエスさまの再臨後の地上の千年王国で成就するという預言は、なんという希望でしょうか。それが、私にとっても、今を生きる力です。
2025年5月7日