No.13 捨てた物に拾われて

 1994年12月、クリスマス直前に、私は無事神学校の卒業式を迎えることができました。アメリカは日本以上に“学歴社会”です。成績も、「A」「B」「C」ではなく、「A⁺」「A」「A⁻」といったふうに、何段階にも分かれています。そして、卒業式の名簿には、総合評価まで記されるのです。それでも私の成績は、何と「最優秀」でした。これには、生粋のアメリカ人学生も驚いて「君、すごいね、留学生なのに」と声をかけてくれました。そもそも“間違って”入学させていただいた私が、“最優秀”で卒業できるなんて、これまた神さまの御恩寵どころか“いたずら”としか思えません。
 けれども、よくよく考えてみると、実はこういう結果になったのにも深い理由がありました。
 私は、神学校の入学許可がおりてから、始業式までの間に、アルバイト先を探したのですが、ロスアンゼルス近郊には、幸いにも土曜日だけ開かれる日本人学校があり、そこで小学校教師を募集していました。ところが、その仕事に就くには、「学生ビザ」から「就労ビザ」への変更が必要でした。そのためにも、日本の「教員免許」の提出が求められたのです。
 これには、焦りました。私は15年前に献身した時、「もう二度とこの世の仕事にはつかないだろう」と思ったので、「教員免許証」をゴミ箱に捨ててしまったのです!何という愚かなことを―と我ながら呆れましたが・・・あわてて卒業した大学に問い合わせると、「免許取得証明書」なるものを発行してくださることになったのです。ホッと胸をなでおろした私でした。
 この「就労ビザ」に切り替えたことは、その後の学生生活に多大な恵みをもたらしました。もちろん、毎月の給料で生活は大分助かりましたし、まず、身分が「学生」ではないので、最低の3科目(9単位)を取る必要はないのです。それで、英語力のない私は、最初2科目6単位に絞って学び始めることができました。体調を崩した時も、1科目減らして6単位にしました。(もちろん、最悪休学することも可能でしたが、幸いそこまでには至らず守られました。)
 ですから、どの科目の課題に対しても、のんびりじっくりレポートを作成したので、私の成績は大方良いものになったのです。

 卒業式の日には、日本から母とクリスチャンの姉が駆けつけてくれました。式後のホームステイ先でのパーティーには、在米日本人の友人に加え、今まで礼拝に通っていたアメリカ人の教会の兄弟姉妹も参加してくれて、みんなでお祝いしました。大きなクリスマスツリーと暖炉のある部屋で、最後に歌った『きよしこのよる』は、日本語、英語、スペイン語、ドイツ語の歌詞になりました。本当に夢のような幸せなひとときでした。

 とはいえ、それからが大変です。私は卒業前に発見した子宮筋腫の問題があり、翌2月には入院手術となりました。それからは、日本のどこに帰るのか、もともと帰るあてのない出発でしたから、そのまま就職浪人生活が始まったのです。細々とアルバイトを続けながら、これからどうしようかとぼんやり過ごしていました。
 日本人教会の人には「腹話術をやりたいなら日本の方がチャンスは多いでしょうに」と言われましたが、なぜかその気になれず、その年も秋になってしまいました。
 ある日「主よ、本当はつらい思い出の多い日本に帰りたくないのです」と、とうとう本音でつぶやくと、ふっとみことばが思い出されたのです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」ローマ人への手紙8章28節

 ああ、そうか、日本での10年間の苦しかったことや悲しかったこと、すべての経験も、いつかは益と変えられるに違いない。だから、やっぱり日本に帰って、日本の教会に仕えよう。―そう、決心できました。

 すると間もなく、日本のある教会からクリスマス集会の奉仕依頼が飛び込んできたのです。「往復の飛行機代も出しますから、是非来てください」とのことでした。
そうしてしばらくして、私の頭に、突然ある牧師(日本の神学校の恩師)の顔が浮かび、電話をかけてみようと思ったのです。
「いやあ、久しぶり。あっ、君、いい時に電話してくれたよ。今、キリスト教主義の学校で聖書科の講師を捜していてね。君、ひょっとして教員免許持ってる?」
「はあ、小中学の免許でしたら持っていますが。」
「そうか、それでいい。それをすぐにFAXで送ってよ。近々日本に帰る予定ないかな。えっクリスマスに奉仕?!それは都合がいい。その時に、学校の面接とこちらの教会の役員と面接したらいい。うちの教会にも伝道師が必要だから。」
たった5分間ほどの国際電話でした。あっという間に、私の就職の道が開かれたのです。12月に一時帰国して一週間。牧師同伴のもと、学校と教会の面接も難なくクリアし、私は、その三か月後に、急遽日本に引き上げることになったのです。

 捨てたはずの「日本の教員免許」は、ここでも多いに役に立ちました。いえ、聖書を教えるためにも必須な物になったのです。(アメリカのキリスト教教育免許は関係なし!)
「お母さん、苦労して大学に出してくれてありがとう。免許が役に立ちました」と、私は献身して初めて、母に感謝を伝えました。真に主の恵みと憐みではないでしょうか。

2024年12月2日