No.29 光なるみことば

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」詩篇119篇105節

 私が53歳で腹話術師を現役引退した時、それから数年後に「礼拝メッセージ」を語る者になるなどとは思いもよりませんでした。日本の神学校を卒業してからというもの、10年間は、腹話術で教会学校関連の集会、教師訓練会が主なる対外奉仕でしたし、アメリカから帰ってからも、キリスト教主義学校の聖書科講師のかたわら、ドラマ腹話術に専念していたからです。対象はだんだんと大人の集会・伝道会が増えていったのですが、私が語ったのはいつも「救いの証し」のみでした。内心では、「私はクリスチャンの教育に召されたはずなのに」と思っていましたから、このような奉仕が続くことにはいささか不本意な部分もあったのですが、今思えば、その30年間も主は私と共におられて、実に貴重な体験をさせてくださったのだと感謝するばかりです。もちろん、当時の私は心の奥底に大変な重荷を抱えていたのですから、“クリスチャンになってからの信仰成長”についてなど、到底語れる状態ではありませんでした。

 ところが、2006年の6月にガラテヤ書のデボーションを通して、異邦人への福音が創世記から約束されていたことに気づいてから、私は猛烈に聖書を学びたくなりました。聖書はイスラエルを中心として、「アブラハム契約」「ダビデ契約」・・・そして「新しい契約」と啓示されてきたのだと知り、まるで初めて聖書の神髄に触れたかのように、目からうろこの思いで、みことばの意味を吸収し続けました。
 そうして5年ほど経った時、今度は私の心が苦しくて仕方がなくなったのです。
「ああ、私はこのままでは、死んでしまう。まるで死海に注ぐヨルダン川のようだ」という苦しみでした。「とにかく、みことばは学ぶだけではだめだ。どんどん心に溜まっていって、どこかへ流さない限り、死海の水のように腐ってしまう」と感じたのです。

 ちょうどその頃、不思議なことに、ある無牧の教会から礼拝メッセージの依頼が入ったのです。「私は牧師としては召されていませんが、メッセージだけでしたらお手伝いさせていただきます」とお答えし、私はその教会まで片道2時間かけて、月に2回ほど奉仕に通うことになりました。
 何しろ、日本の神学校時代の「説教演習」以来の礼拝メッセージです。私はそれから、毎回ねじり鉢巻きでメッセージの準備をするようになりました。
といっても、最初の段階では、私が一番使命感を覚えた「神の子どものアイデンティティー」にまつわるテーマ説教でしたが、これはかれこれ40回シリーズとなったでしょうか。高齢のクリスチャンが多かったその教会の方々にとって、内容的にはどれほどお役に立てたのかはわかりませんが、「先生は活舌がいいから、聞きやすいです」と言われ、励まされつつ3年余り続けました。

 それから数年後、今の教会の伝道師となり、私のメッセージはいつしか「講解説教」となってきました。若い頃から牧師として語ってこられた先生なら、もうとっくにその準備の仕方も身についておられることでしょう。それが、50代後半からの“にわか説教者”の私にとっては、毎回が必死の作業です。日曜日に30分のメッセージを語るのに、準備はその5日前の火曜日から始まります。いえ、実際には日曜朝の当日まで、原稿のチェックで時間を割いています。いつも、今まで語ったことのない聖書箇所を“自転車操業”で語っているのですから、当然のことでしょう。
 それでも私にとって、この「礼拝メッセージ」の奉仕は、本当に「恵み」そのものです。
 というのは、毎回のように、準備をする週になると、何かしらトラブルが起こり、私は頭をかかえてしまうのです。「こんな大事な時に、こんなことが起こるなんて、準備の妨げじゃないの!」と苛立つのですが、それでも、“強いられた恵み”として聖書研究にとりかかると、何と、そこにこそ、かかえていた悩みに関する「答え」があるではありませんか!「ひゃー、主は生きておられるよ。主は私の心をお見通しじゃないの」とびっくり仰天です。本当に、そんなことが毎回のように起こるのです。
 ですから、私にとって、礼拝メッセージの奉仕というのは、神さまが私の信仰を支え励ますために、あえて与えてくださった恵みのご奉仕としか言いようがありません。
 毎回のように、生まれて初めてこの箇所を読んだかのような新鮮な思いでみことばを読み、調べ、黙想し、祈っていくと、全く新しい真理を発見し、自分の罪が示され、悔い改めに導かれ、赦しの喜びに満たされ、これを語ろうと示されて、必ず直前までには間に合っていくのです。
 「メッセージの奉仕というのは、語る人が一番恵まれるよね。兄弟姉妹、みんながやったらいいのに」と思うほどですが、そればかりは神さまが許されることなので、全員というわけにはいかないのでしょう。
 こんな素晴らしい恵みの奉仕によって、いのちのみことばに触れ、信仰の道に光を当てられるとは、何という幸いな人生でしょうか。ただただ、主の憐れみを覚えるばかりです。

2025年8月4日